2012年6月21日木曜日

魔力をもつ「桜」、かくも潔く。


「本物の桜と間違えて、鳥が止まろうとした」

こんな逸話が残るほどに見事な「桜」を描き切ったのは、江戸時代(後期)の女流画家「織田瑟々(おだ・しつしつ)」という人である。53年という生涯の中で、彼女が描き残したのは「桜のみ」(70点ほど現存)。

「織田」の姓から連想されるように、彼女は戦国時代の一時的な覇者「織田信長」の末裔である(より正確に記すならば、織田信長の九男・信貞の子孫ということになる)。




近江(滋賀)に生まれた瑟々は、お隣りの京都へ出て絵を学ぶ。

ところが彼女が30そこそこの頃、夫(石居信章)に先立たれ、それ以降は髪をおろし「尼」となる。

※「瑟々」と号したのはそれからであり、それまでは「津田政江」という姓名であった(尼になってから、織田姓を名乗るようになった)。

そして、桜に専心するようになったのもその頃からである。





当時の京都には「桜画」の始祖とされる「三熊思孝(みくま・しこう)」がいた。

自らを「花顛(かてん・花狂いの意)」と称した思孝は、のちの桜のみを描く「三熊派」と呼ばれる会派の祖ともなる。



絵を学び始めた頃の思孝は主に「麒麟や鳳凰、龍」などの「架空の動物」を描いていた。それは師である大友月湖の影響であった。

ところが思孝はこう考えた。「見も知らぬモノを描くことは、『一時の目』を喜ばせるだけであり、世のためにならない」。

そして、こう思い至る。「日本国中で最も優れた花は『桜』であり、この花は他国に存在しない。ゆえに、そういう花を描くことは『国の民人の務め』である」と。

そう思い至って以来、こだわりの強い思孝は「同じ画面上に、桜以外の他の事物を組み合わせない」というほどに「桜花だけの世界」にこだわったとのこと。



織田瑟々が師事したのは、その思孝の妹「三熊露香」であった。

師である露香は「繊細な桜」を描いたというが、弟子の瑟々の桜は「力強い桜」であり、「織田桜」の異名をとるほどだったという。瑟々は覇王・織田信長から200年以上も後の人であるが、その血が薄まることがなかったようである。



夫を失い尼僧となってからの瑟々は、仏の道を歩む傍ら、お寺(西蓮寺)で桜を描き続けた。そして、その描いた桜の絵を世話になった村の人々へと惜しみなく与えていったのだという。

※村の人々は瑟々のことを「おヒンさん、おヒンさん(お姫様の意)」と呼び親しんだと伝わる。



現存する瑟々の桜画の数々は、そうした村人たちが大切に各々の家に伝えて来たものである。

桜の咲く頃となると、そうした家々では家宝のように大切に仕舞ってあった「瑟々の桜」をおもむろに紐解き、自然の桜を愛でるように瑟々の桜を愛でるのだという。




ある人は桜を称して、こう言った。

「桜には魅力があるのではない。『魔力』があるのだ」

桜ばかりを描いたという織田瑟々、そして三熊思孝・露香もその『魔力』の虜(とりこ)になってしまったのであろう。



瑟々の生きた江戸後期、「ソメイヨシノ(染井吉野)」の全国的な普及とともに、現代の我々の「花狂い」の歴史は幕を開けることになる。

しかし意外なことには、戦国の香り残る江戸初期の武士たちは「桜を嫌っていた」のだという。なぜなら、桜の「一気に散る様」が縁起をかつぐ武士たちの好むところではなかったからだ。

※椿(つばき)が嫌われるのも、その花の落ちる様が生首のようだという理由からであった(椿は花びらを散らさずに、花ごと地面に落ちる)。



その武士たちの価値観が180°転換させるのは「忠臣蔵」。

歌舞伎「忠臣蔵」で用いられた「花は桜木、人は武士」という台詞が武士の心を魅了し、その「散りゆく潔さ」が逆に高く評価されるようになったのだという。



しかし悲しいかな、その「あまりの潔さ」は第二次世界大戦中の「神風」となって、多くの若き花々を散らすこととなる。

「特攻(とっこう)」と呼ばれる日本軍の捨て身の攻撃は、兵士が生還する確率が「皆無」という信じ難い作戦であった。



「特攻隊」が編成されるのは、日本軍が完全に追い詰められた終戦一年前から。

空中では「神風」が敵艦に体当たりを喰らわせ、海中では魚雷「回天」に人間が乗り込み敵艦に向けて発射された。



後進できないという人間魚雷「回天」で出撃した87名のうちの一人であった「塚本太郎」隊員は、その手記にこう書き残している。

「わが庭に春廻りなば徒桜(あだざくら)、香り伝えよ黄泉路征く身に」

出征する彼の脳裏に映っていたのは、懐かしき庭の桜花であったのか。



その遺書には、こうある。

「日本中が軍神で埋もれねば勝てぬ戦です。ご両親の『幸福の条件』の中から太郎を早く除いて下さい」

1944年1月9日、塚本太郎隊員は黄泉路へと向かい出撃して行った…。内側からは開かぬというハッチを閉めて…。




桜の「魔力」は日本人の「美の心」を育むこともあれば、「早すぎる死」へ駆り立てることもあった。

この「魔力」という言葉は「佐野藤右衛門」の口から出たものであり、彼は弱った桜の古木を蘇らせるという「桜守(さくらもり)」である。



彼の元には「わが町の桜を救ってほしい」という懇願が日本全国から寄せられる。

その日の彼が訪ねたのは樹齢300年を越えるという桜。この桜は山腹の神社を守るかのようにそびえる大切な桜である。

その桜の上部の枝が花をつけなくなったというのであるから、町の人たちが気を揉むのは無理なからぬこと。



現地に着いた佐野氏は、職人たちに幹のアチコチをコンコンと叩かせると、自身は桜の古木に抱きつくようにして、その音の響きに耳を研ぎ澄ます。あたかも、聴診器の音に注意深く耳を傾ける名医のように。

「異変の原因やいかに?」




町の人たちが言うには、昭和の初めに神社の境内を広げた時に、桜の根元に「盛り土」をしたのだという。

佐野氏は言う、その盛り土に「悪いカビ」が潜んでいたのだろう、と。



「人間は自分たちが楽なように楽なように自然を変えてきた。その無理を元に戻してやれば、樹も元に戻る」と彼は言う。

佐野氏の生まれた家は180年以上続く植木職人。そんな佐野氏自身、桜の「魔力」に魅了されてしまっているのだと自ら語る。



桜の根が目覚める頃、桜の古木の根元を掘り返してみると、佐野氏の言う通り「悪いカビ」が根っこに食らいついていた。

佐野氏は燃やしたワラで黴びた根っこを殺菌。もちろん、盛り土は元の通りにすべて取り除かれた。



その春、老齢の桜は誇らしげにいつもより多くの花をつけた。しかし、上部の枝にはやはり花がついていない。どうやらその枝は枯れてしまっているようだ。

それでも佐野氏は「枯れた枝はそのままに」と言う。




「どんな樹木でも身体が弱れば、どこかを切り捨てなければならない。抱えきれなくなった枝を枯らして落さなければ、本体までもが枯れてしまう。

『部分的に枯らすことができる』というのは、生きようとする意志がいまだに健在であることの証(あかし)。この桜はまだまだ大丈夫だ。必要以上に手を加えることはない。」



「生きようとする力を信じて、その力添えをする」

これが佐野氏の基本的なスタンスである。




「散る」のは桜の生きる道であり、それは「死ぬ」ことではない。

その散る様に「死」を見た人々もいれば、「生」を見る人々もいる。

幸か不幸か、桜の魔力はその力がどちらを向いていても、その力を増幅させてしまうようである。




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出典:新日本風土記 
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