2012年6月24日日曜日

対の神々の産んだ子供たち。日光


「日光(にっこう)」という信仰の地は、江戸時代に徳川家康が祀られたことにより一躍有名になった土地であるが、その信仰の歴史はそれよりもずっと古い。

「日光」という文字が文献に現れるのは「鎌倉時代」。言い伝えによれば、さらに時代が下る「空海」がこの文字を当てたのだという(空海は820年に日光を訪れたとされている)。



それ以前の記録(記紀六国史)では、「日光」という漢字ではなく、「二荒(にっこう)」という漢字が当てられている。

元々の「二荒」は「ふたら」と読まれ、それは「山の崩落部」を表す古語であったとともに、「二荒神」という神様を表すものでもあったのだという。

その二荒神を祀るという日光の「男体山(なんたいさん)」はかつて「二荒山(ふたらさん)」とも呼ばれた山である(その山頂には「二荒山神社」が鎮座している)。






この男体山を信仰の山として開いたのは、奈良時代の僧である「勝道上人」。

当時、「物の怪(もののけ)でも近寄れぬ」と恐れられていた男体山は、その標高およそ2,500m。関東以北では最高峰である。

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その恐ろしい山に挑まんとした勝道上人。

「もし山頂に至らざれば、菩提に至らず(もし山頂に達することができなければ、悟りを開くことは叶わない)」と、その決意は極めて固いものであった。

そして、さらなる苦行を自らに課すため、勝道上人は登山がより一層困難になる残雪期を選んで前人未到の男体山に挑むこととした。



しかし、物の怪ですら恐れる男体山は、決して一筋縄では行かなかった。

嵐や悪天候に阻まれ、勝道上人は何度も撤退を余儀なくされる。

その宿願が果たされるのは、初挑戦から16年をも経てからのことであった。




勝道上人の不屈の意志により男体山に開かれた「二荒山(ふたらさん)神社」は、以後この地の山岳信仰の中心となっていく。

そして、多くの高峰が連なる日光連山にあって、その信仰は男体山の周辺の山々へも広がりを見せていく。

隣りの「女峰山」は男体山の対の山とされ、その夫婦両山の子供たちとして「太郎山」「大真名子山」「小真名子山」と、家族は増えていった。

※かつては「二荒山(ふたらさん)」と呼ばれていた山が男体山と呼ばれるようになったのは、むしろ女峰山との対称で名付けられたものとのこと。






男体山が家族を増していったのは、その信仰の根底に流れていた「神話の世界」が物語を膨らませていったからなのかもしれない。

諸説あるものの、ある一説によれば「二荒神」とは「天照大御神(アマテラス)」と「須佐之男命(スサノオ)」のこととなる。

※この両神はアマテラスが姉で、スサノオが弟の兄弟である。



暴れん坊だったスサノオは、父親のイザナギから海を支配するように命じられたのに、母親のイザナミのところ(黄泉の国)に行きたいと駄々をこねる。

怒った父・イザナギは息子・スサノオを追放。困ったスサノオはとりあえず姉のアマテラスの元(高天原)へ向かうことにする。




スサノオが高天原に昇って行くと、国中の山川が響動して大地が大きく震動し始める。

何事かと慌てた姉・アマテラスは、てっきり暴れん坊の弟・スサノオが国を奪いに来たものと勘違いして、弓矢を構えて臨戦体制をとる。

「おのれスサノオ!高天原を乗っ取るつもりか!」



姉・アマテラスと弟・スサノオが対峙したのは「天の安河(天の川)」の両岸。

※「天の安河」はのちの「天の岩戸隠れ」の舞台ともなる場所。

スサノオは姉の誤解を解かんとして、自らの剣(十拳剣・とつかのつるぎ)を姉に差し出す。

その剣を受け取ったアマテラスは剣を3つに折って、三柱の女神(宗像三女神)を生み出す。

※「柱」は神々を数える時の単位。



今度はアマテラスが髪に巻いていた勾玉(八坂の勾玉)をスサノオに渡す。

スサノオはその玉を水(真名井)で清め、五柱の男神を生み出す。

※アマテラスの生んだ三女神とスサノオの生んだ五男神(合わせてハ柱)は、五男三女神として「八王子神社」などに祀られることになる。




以上が「天の安河」における「アマテラスとスサノオの誓約(うけひ)」の物語である。

「うけひ」というのは、あらかじめ約束した事柄がその通りに実現するかどうかを占うことであり、この時の「うけひ」は「子を産む」ということであった。

スサノオの持ち物(剣)から生まれたのは「か弱い女神たち」であったため、アマテラスはスサノオの「邪心のない清らかさ」を確信し、和解に至ることになるのである。



ところが、スサノオはその和解を勘違いする。

姉・アマテラスが折れたことで、「自分が勝った」と思い込んだのだ。

しかも、アマテラスから受け取った勾玉から自分が生んだのは「男神」であったため、スサノオは勝手に「男を生んだ方が勝ち」だと信じ込んだのである(最初の「うけひ」においては、男を生んだ方が勝ちとは決めていなかったのだが…)。



調子に乗ったスサノオはやりたい放題に高天原を荒らし回る。

激怒したアマテラスは、その後「天の岩戸」に籠ることになるのだが、それはまた別のお話。




日光にそびえる男体山とその家族たちは、こうした神々の神話を想起させる。

男体山の二荒山神社に祀られる「大国主」は、結局は高天原を追われたスサノオの6代目の子孫であり、妻・女峰山に祀られる「田霧姫(たぎりひめ)」は、三つに折られたスサノオの剣から生まれた三女神のうちの一人である。




そして、男体山と女峰山の子供とされる太郎山に祀られるのは、「味鋤高彦根(あじすきたかひこね)」。神話においても大国主と田霧姫の子供である。

※幼い頃のアジスキタカヒコネはその泣き声がとても大きく、それをあやすのに日本全土の島々(八十島)を巡ったり、天と地に梯子をかけて何度も昇り降りしたりと大変だったそうだ。




静かなる山々に、古代の人々はなんと躍動的な姿を見たことか。

荒々しい神々ですら、どこか微笑ましい人間味に満ちている。



男体山を開いた勝道上人は、地元である栃木県(下野国)の住人であったというが、男体山に祀ったのは遠き出雲(島根)の神「大国主」。

なぜ、地元・下野国の祖とされる「豊城命(とよきのみこと)」ではなかったのか?

この不自然さは今なお謎とされている。



「豊城命(とよきのみこと)」は第10代・崇神天皇の第一皇子であり、皇位継承の権利を有していた。

しかし、夢占いによって東国を治めるために派遣され、次期天皇となったのは第三皇子の弟「活目命(いくめのみこと)」であった。



兄・豊城命の見た夢は「東に向かって槍や刀を振り回す夢」であり、弟・活目命の見た夢は「四方に縄を張ってスズメを追い払う夢」である。

その夢のお告げに従い、東国に派遣された豊城命は、のちに上野(群馬)・下野(栃木)の始祖となっていったとのことである。



一方、天皇となった弟・活目命は「垂仁天皇(第11代天皇)」となり、諸国に多くの池を作って、夢のお告げ通りに国の農業を盛んにしたそうである(殉死を禁じて、その代わりに埴輪を埋葬させるなど、心優しき天皇でもあったようだ)。

強き兄・豊城命、そして優しき弟・活目命。彼らはそんな兄弟だったのかもしれない。




下野国の神となった豊城命(とよきのみこと)。

その土地の神を勝道上人は男体山に祀らなかったわけだが、その代わりに宇都宮に設けた「宇都宮二荒山神社」には豊城命を主祭神として祀った。

「宇都宮」という名の由来の一つに、「移しの宮(うつしのみや)」というのがあるが、「二荒山神社」は男体山と宇都宮の二ヶ所に設けられたのである。



「二荒神」という響きには、暴れん坊の神様・スサノオの姿もあれば、強き皇子であった豊城命(とよきのみこと)の姿もある。

スサノオも豊城命もともに兄弟同士の逸話が残ることも共通している。



二つの神と二つの宮を持つ「二荒山神社」。

そのイメージは、天の安河を挟んで対峙した姉・アマテラスと弟・スサノオの姿もだぶり、兄は外部との戦闘を、弟は内政を担った豊城命と活目命の兄弟の姿もある。

さらには男体山と女峰山という二つの峰が、その奥に堂々とそびえている。



神を生み、国を生み、山を生んだ日光に残る信仰。

そこには喧嘩するほど仲の良い二人の姿が見え隠れしているようだ。



男女一対の山岳は日本全国に各所あれど、子をなした夫婦山というのは珍しい。

二つに別れることは悲しいこともあるかもしれないが、それらが新たなものを生むのであれば、それはそれで喜ばしいことなのでもあるのだろう。



荒ぶる神は時として「破壊の神」でありながら、分裂によって多くの子をなす創造の神でもある。

アマテラスが荒神スサノオに求めた「誓約(うけひ)」は、「子をなす」ことではなかったか。



生むものがあるのであれば、その争いも是とされるのかもしれない。

もし何も生まぬのであれば、その争いは「不毛」であろう。

日光の男体山は幸いにして「黒髪山」とも呼ばれるほどに、山頂まで黒々と樹々が生い茂っている。そして、太郎山をはじめとする数々の子供たちにも恵まれているのである。



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出典:新日本風土記 シリーズ山の祈り 日光

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