「小野さん、あなたは4、5年前に死んでいるはずだ。
なぜ、生きているんですか?」
医者がそう言うのも無理はない。
「医学的なデータ」だけを見れば、彼女はすっかり死んでいておかしくない。しかし、それでも彼女は生きている。82歳の小野春子さんは、ちゃんと生きている。
ある時の心配停止は一時間にも及んだ。彼女が蘇生した頃には、葬儀の準備がすでに始まっていたほどだ。
末期ガン、心筋梗塞、全身麻痺、失明…、彼女を襲った難病奇病を挙げていけば、枚挙にいとまがない。そんな艱難辛苦に遭いながらも、それらをすべて克服してきたというのであるから、それは人智を超えていると言わざるを得ない。
彼女を訪れた最初の大きな病は、末期の乳ガンであり、余命は一ヶ月と宣告された(当時51歳)。
そのガンが発見された時には、すでに一刻の猶予もならない状態であり、即刻入院、緊急手術。診察に行ったその日にである。
幸いにも、手術は無事に終わる。
ところが、執刀した医師は、キツネにつままれたような顔をして、小野さんの休む病室へとやって来た。
なぜなら、彼女の手術中、まったくと言ってよいほどに、「血がでなかった」のだ。手術着についた血痕は小さなものが3つほど。手術中の出血はそれぐらいでしかなかった。あれほどの大手術だったにも関わらず。
「小野さん、あなたは何かを信仰しているのですか?」
「はい、キリスト教を」
なんと神の御加護の強きこと。
彼女の両親も信仰心の厚い人であり、彼女の父は医師でもあった。
「信仰のない人の死に際は、かわいそうで見ておれない」と、彼女の父はよく言っていたという。
屠殺場で働いていたある人は、その死に際に「牛が責めてくるー!!」と絶叫しながら、激しく暴れ回ったという。痛み止めを打っても一向に効かない。
「信仰を持たずに死ぬ人の苦しみには薬が効かない」と、彼女の父は語っていた。「仮に肉体には効いたとしても、心には効かないんだよ」。
小野さんが66歳になった時、彼女は血管炎によって「全身麻痺」になってしまう。
それでも、動かぬ手を何とか動かし、「絵」を描き始めた。しかし、そう易々とは描けない。直線一本まともに引くのに2ヶ月もの時間がかかった。三角を描くのに、もう2ヶ月…、丸などは極めて難しい。
それでも半年もすると、ゼラニウムを描き終えた。そこには彼女の言葉が添えられていた。「苦しみにあったことは、私のために良いことです」。
せっかく絵を描けるようになった喜びも束の間、彼女の目から光が消えた。失明したのである。
全身麻痺で歩けない、そして何も見えない。ただただベッドに横たわる日々…。
そんな日々の中、娘さんのひときわ明るい声が病室に響く。京都の病院に良いお医者さまがいるというのである。
さっそく京都に転院して手術を受けたところ、成功率0.5%という難しい手術は見事に成功。さらに、たとえ成功しても明暗が分かる程度にしか光を取り戻せないと言われていたにも関わらず、左右の視力は1.5にまで回復した。
全盲の日々は5ヶ月で終了し、彼女の両眼はいまだに1.5の光に満ちている。
彼女は自問する。
「死んでいいのか?生きたいのか?」
神は、困難のたびに、それを乗り越える力を与えてくれる。
長き病歴を振り返った彼女は、ふと思い至る。
「病気は向こうからやって来るんじゃない。自分がつくるのだ」と。
それ以来、身を正し、食を正した彼女は、「すべてを神様に委(ゆだ)ねている」。
現在、彼女の右腕は、ひどい浮腫で麻痺している。
もし、腕を切り落とさねければならなくとも、彼女の心は平安だという。なぜなら、「神様に頂いた腕をお返しするだけ」、というのである。
自分自身に「拘泥すること」は、困難を一層困難にし、乗り越えることもできなくしてしまうのだと、彼女は語る。
数々の難病奇病を乗り越え続けた小野さんを、ひとは「奇跡の人」と呼ぶ。
彼女に言わせれば、その奇跡は、「有限」な自分自身に拘るのをやめたからこそであり、「無限」なる神が奇跡をもたらしてくれるのだ、ということになる。
父なる神は、困っている娘にむかって「あなたを知らない」とは決して言わないと、小野さんは信じている。
「自分は自分であっても、自分じゃない」
他者が存在するから、自分と認識できる。
病気があるから、健康だとわかる。
われわれは、いつも「二極の狭間」で揺れ動いている。
禅の和尚は、決まってこう言う。「一即多、多即一」。
般若心経に言わせれば「色即是空、空即是色」となる。
2つあると思い込むのは人間の勝手であるが、その実は「一つ」である、と悟った人々は口をそろえるのだ。
「ここに往還といえば、『往く』と『還る』との2つの方向があるかのごとく考えなければならぬが、その実は『ただ一つの動き』であることを知って欲しい」
禅の大家、鈴木大拙氏の言葉である。
出典:致知5月号
「それでも私は生きている」小野春子
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