2012年6月18日月曜日

「吉野」に散る桜と、蘇りの「熊野」


桜が満ちる春の吉野山(奈良)。

山々から溢れ返えらんばかりの桜の木々はおよそ3万本。

これほど多くの桜の木々がこの地に育まれてきたのは、吉野には桜を「御神木」として大切にしてきた歴史があるからなのだという。




桜の木々に取り囲まれるように佇む「金峰山寺(きんぷせんじ)」には、こんな伝説が残る。

今から1300年以上も前、「役小角(えんのおづぬ)」という修験道の行者は吉野の山中で修行に明け暮れていた時のこと。

役小角の山々への祈りは巨岩から「蔵王権現(ざおうごんげん)」をこの世にいだす。そして、眼前に現れいでた蔵王権現を役小角は「桜の木」で彫り上げたのだそうだ。

それ以来、桜の木は「御神木」とされ伐採を禁じられることとなる。






蔵王権現を祀る「金峰山寺(きんぷせんじ)」というのは、「修験道」の総本山とされるお寺であり、その修験道の開祖とされるのが「役小角(えんのおづぬ)」である。

修験道とは、日本古来の山岳信仰と外来の仏教が混淆してできた「日本独自の宗教」と言われるもので、山に籠って厳しい修行を行うのがその特徴である。

また、役小角が感得した「蔵王権現(ざおうごんげん)」も、外国(中国・インド)に起源を持たない「日本独自の仏様」ということだ。



役小角の伝説はこんなことも言う。

弟子であった「韓国連広足(からくにのむらじひろたり)」の讒言により、役小角は遠く伊豆へと流罪になった(699)、と。

※韓国連広足は、壬申の乱(672)のおりに天武天皇に味方した人物ともされ、その末裔には楠木正成や明智光秀の名前も上がる。これらの人物たちはみな天皇方に大いなる忠誠を示す人物ばかりである。



その名前に「韓国(からくに)」とあるように、彼には渡来の香りが濃厚であり、その点、日本独自の宗教(修験道)と独自の仏様(蔵王権現)を生み出していく役小角とは全く対照的である。

この両者が敵対するという筋書きは、何か意味深いものがあるのかもしれない。ちなみに、役小角が行者として山深くへ身を投じていくのに対して、韓国連広足は外従五位下まで昇進している。




現在に残る役小角の像の両脇には、決まって「前鬼」と「後鬼」が控えている。

この二人の夫婦鬼はかつて生駒山中を荒らし回るどうしようもない鬼であり、人間の子供をさらっていくという悪事を繰り返していた。

そこで一計を案じた役小角、5人いたという鬼夫婦の子供のうちの末子を鉄釜の中に隠してしまう。すると、かわいい我が子を見失った夫婦鬼は悲嘆に暮れた。



こうして子供を殺された親の悲しみを痛感した前鬼・後鬼はそれ以来、役小角に心服し、役小角が死ぬまで片時も離れずに付き従うようになったのだという。

役小角の前を行く夫・前鬼が斧を振るって道なき道を開いていけば、後に控える妻・後鬼が水瓶を手にして役小角の食事の世話をする、といった具合いだ。



時が過ぎ、役小角の死が近づくと、前鬼・後鬼も一緒に死にたいと懇願する。しかし、役小角はそれを許さない。生きるだけ生きて、修験の行者たちの世話をしろと役小角は前鬼・後鬼に言い聞かせたのだ。

その言葉に素直に従った前鬼・後鬼。修験道の修行場となっていた「熊野」に、前鬼・後鬼は自分たち5人の子供に修験者たちの世話をさせるため、5つの「宿坊」を開かせる(行者坊・森本坊・中之坊・小仲坊・不動坊)。

そして、その子孫が五鬼継(ごきつぐ)、五鬼熊(ごきくま)、五鬼上(ごきじょう)、五鬼助(ごきじょ)、五鬼童(ごきどう)という五家の祖となったとのことである。



この五家は役小角の言葉をかたくなに守り続け、1300年にわたり立派に宿坊を営んでいたのだが、明治新政府によって出された「修験道禁止令」が痛恨の一撃となってしまう。

一気に衰退した修験道。五家のうちの四家が熊野の地を去り、現在まで残っているのは「五鬼助(ごきじょ)家」の小仲坊のみである(現在、61代目)。




熊野は修行者のみならず、多くの参詣者を引きつけ続けた。

歴代天皇の御幸も数知れず、後白河上皇などは33回も熊野に詣でている(以下多い順に、後鳥羽上皇29回、鳥羽上皇23回、白河上皇12回)。



何がそれほど人々を熊野に引きつけたのかといえば「蘇(よみがえ)りの伝説」が、その一つの契機となっている。

その伝説に登場する「小栗判官」は戦に敗れて相模国へと落ち延びる。そこで出会うのが運命の人「照手姫」。しかし、それは禁じられた恋であり、小栗判官は照手姫の父親に毒殺されてしまう。



地獄に落ちた小栗判官。幸いにも閻魔大王の恩情により地上界へ戻ることが許される。

ところが、小栗判官が地上界へ戻ったその姿は、癩病にかかった世にも醜い「餓鬼」の姿であり、歩くこともままならない。

それでも閻魔大王は小栗判官を見捨てたわけではなかった。「熊野の湯」に浸かれば元通りの身体に戻ることができるという救いの道を残しておいてくれた。



夢のお告げを受けた遊行上人は、餓鬼姿の小栗判官を車に乗せると、「この車を引く者は供養なるべし」という有り難いお言葉をしたため、それを信じた多くの人々が小栗判官の車を熊野へむけて引いていく。

その熊野への途上、運命の人「照手姫」も小栗判官の車を五日間引くことになるのだが、その姿がかつての小栗判官とは似ても似つかぬために、彼女は彼と知る由もない。




そうして、多くの人々の好意により小栗判官は「熊野の湯(湯の峰温泉)」へと辿り着く。

その「つぼ湯」に浸かること49日。小栗判官の餓鬼病みは完治し、見事なる「蘇(よみがえ)り」を果たすことになる。

蘇った小栗判官は照手姫を探し出し、晴れて夫婦となることができるのである。



蘇りの伝説は小栗判官ばかりではない。

遠く神話の時代、「神武天皇」も熊野の地で蘇っている。



高千穂(宮崎)から東方を目指した神武天皇は、大阪の地で「長脛彦(ながすねひこ)」の激しい抵抗に遭ってその行く手を阻まれ、やむなくその進路を南方の熊野方面へと向ける。

しかし、兄の五瀬命(いつせのみこと)は長脛彦の矢傷が元で死に、他の兄たちも熊野沖の暴風雨を鎮めるために入水して果てる。

七難八苦の末、ついに神武天皇自身も熊野の大熊の前に倒れてしまう。なんと険しき熊野の道よ。



倒れ伏した神武天皇を天界から眺めていた天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、これは困ったことになったと、助けの手を差し伸べる。

霊剣・布都御霊(ふつのみたま)を天界から下し、熊野の住民であった「高倉下(たかくらじ)」に託す。

倒れていた神武天皇に高倉下(たかくらじ)が霊剣を捧げると、あら不思議。神武天皇は奇跡の「蘇り」を果すのだ。



蘇った神武天皇は険しい熊野を八咫烏(やたがらす)に導かれて吉野へと越え、ついには宿敵・長脛彦(ながすねひこ)を討ち果たす。

ここに日本の建国は成され、神武天皇は初代の日本国天皇となるのである。時は紀元前660年2月11日のことであった(建国記念日)。

※神武天皇が崩御する日が3月11日となっているのは、この日の運命やいかに。



蘇りの地としての「熊野」。

神武天皇を蘇らせた高倉下(たかくらじ)は、現在「神倉神社」に祀られている。

神倉神社は熊野三山の一つ「熊野速玉大社」の奥の院ともされ、「ゴトビキ岩」と呼ばれる巨岩がその御神体である。




この神倉神社では古くから「御燈祭(おとうまつり)」という火の祭りが続けられている。

神倉は人々の生活を支える「火」を産出してくれる聖地であり、それは年に一度の再生が必要なのである。



御燈祭に参加できるのは男子のみであり、参加者たち(あがりこ)は一週間前から「白いモノ(白米・豆腐・かまぼこなど)」しか食さずに精進潔斎するのだという。祭り当日の装束も白一色であり、その腰には荒縄が巻かれている。

神域で起こされた火は「上り子(あがりこ)」達に下されて、火を頂いた男たちはその火を掲げて急な石段を駆け下りる。そして、その暗闇を流れ落ちるような火の輝きは、「下り竜」とも称される壮観なものである。




こうした神倉神社に残る「火」と「巨岩」の謂れは、イザナミの伝説をも想起させる。

日本列島を生んだとされる女神・イザナミは、火の神(カグツチ)を生んだ際に亡くなり、この熊野の地に葬られたとされているのである。

そのイザナミを祀るのが「花の窟(いわや)神社」であり、そこには社殿はなく、あるのは御神体とされる巨岩のみである。



日本の古くからの信仰は「自然」を崇拝するものであり、森林や巨岩(磐座)などが神々の宿るカムナビ(神名備)とされてきた。

神々が巨岩に祀られることもあれば、巨岩から生まれることもある。イザナミや高倉下は巨岩に祀られ、役小角の感得した蔵王権現は巨岩から生まれたのである。



役小角の開いたとされる修験道は、そんな古き日本の信仰を受け継ぐものであり、中国や朝鮮半島などの渡来文化とは一線を画するものであった。

伝統的な磐座(いわくら)よりいでた修験の仏・蔵王権現が「桜の木」に彫り込まれたというのも、桜を愛する日本人の願望だったのかもしれない。



当時の日本は百済・白村江(はくすきのえ)にて唐・新羅に大敗し、遣唐使のもたらした渡来文化に押しに押されていた時代であった。

そうした外圧によって強まった国内指向が、日本独自の宗教・修験道、日本独自の仏・蔵王権現を役小角に産ませたのかもしれない。



吉野の山々を埋め尽くす桜花は、そんな時代の忘れ形見でもあり、その華やかさの後ろに鎮座する熊野の深山は古き日本人の心を静かに育み続けてもきたのであろう。

鬼たちの子孫によって1300年間も守り継がれてきた熊野の修行場は、今も多くの人々に日本の価値を再発見させてくれている。



外から押し寄せる大波は、そんな熊野にたびたび打ち寄せる。開国期を迎えた明治時代もそうであった。

明治39年(1906)に発布された「神社合祀令」は、神社を一町村一社に減らすように命じたものであり、その結果、日本全国で7万社が取り壊された。



この法令が破壊したのは寺社ばかりではない。それらの抱えていた鎮守も森までが次々と切り倒されていったのだ。

聖域・熊野とて例外ではありえず、鎮守の森にはチェーンソーの轟音が響き続けた。



この暴行に立ち向かわんとしたのは、和歌山生まれの生物学者「南方熊楠(みなかた・くまぐす)」。彼は真摯に自然を見つめることにより、「命はすべて繋がっている」という境地に達していた。

彼が明治政府に送りつけた抗議文は、なんと8mもの長きにわたるものであったという。




樹木の伐採は貴重な生態系を台無しにするだけでなく、「水害」をもこの地に招くと熊楠は訴えた。

吉野・熊野地方は日本有数の降水量が豊かな自然を育んできた反面、台風銀座とも呼ばれるほどに台風が通り抜け、水害の絶えない地域でもあったのだ。

※歴史的な水害を被り続けてきた十津川村では、神社合祀令の10年ほど前にも村落が壊滅するほどの水害を受けて168人が死亡している。また、昨年(2011)の台風12号の水害でも大規模な被害を被っている。

熊楠の猛烈な抗議は、明治政府の受け入れるところとなるのだが、その時までに熊野の神社の8割、そして広大な森が失われてしまっていたという。



それからほぼ一世紀。

熊野の森の再生は有志たちの手によって継続されている。森を取り戻すには、あと300年はかかると言われているものの、確実に樹木は繁茂を続けている。



古来より「蘇りの地」とされてきた熊野。

時はかかれども、その鎮守の森は再び蘇ることとなるのであろう。



それは失わつつある日本人の心とて同様なのかもしれない。

吉野の桜を愛でて、熊野の深い山々に想う時、何か心に感じるものがまだ残されているのではなかろうか。



熊野 神と仏



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出典:新日本風土記 「吉野 熊野」

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