2012年9月6日木曜日
争い、そして和する。「角館」に残された古き日本の絶妙な間合い。
夜の祭はいよいよクライマックスを迎えようとしていた。
若者たちの表情に緊張が走ったのは、通りの向こうに「隣町の曳山(ひきやま)」の姿を確認した時だった。
ここは秋田県・角館(かくのだて)。江戸の昔に栄えた城下町であった角館には、今の世にも古くからの武家屋敷などが数多く残る。そうした武家の気風が残るのか、この祭りのクライマックスは少々荒々しい。
2012年9月4日火曜日
「非武の島」、沖縄。グアムとの数奇な共通点。
およそ200年前、アジアの国々を巡っていたイギリス艦長は、初めて沖縄(当時・琉球)の人々を目にして驚いたという。
「武器を持っていない…」
その驚きをナポレオンに伝えると、戦闘に明け暮れていたナポレオンはもっと驚いた。
「武器なくして彼らはどうやって戦うのだ?」
ナポレオンの抱いた当然の問いに対して、艦長はこう答えた。「彼らは戦争をしたことがないのだそうです。武器を持たずに、平和を保っているのです」
「なにーっ! 戦争がないだとーーーっ!」。ナポレオンは叫んだ。「この世に戦争を知らない人々がいるなどありえない!」と言わんばかりに。
2012年8月4日土曜日
武士の末裔「柴五郎」の守り抜いた北京
「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめており、ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じている」
時は1900年、場所は中国・北京。義和団と称する反乱軍は、「扶清滅洋(清をたすけ、外国勢を滅ぼす)」の旗を掲げ、世界各国の公使たちを北京城に追い詰めていた。
20万人以上の大軍を眼前にして、北京城に立て籠もるのは、わずか4000人弱。4000とはいえど、そのほとんどが民間人であったため、兵と呼べる数は500にも満たなかった。
ところが、この絶望的に少数の籠城軍は、およそ2ヶ月間にわたり北京城を守り抜いてしまう。そして、その混沌とした北京城内には、その「小男」の姿が確かにあった。
冒頭の記述は、当時の北京城内でその「小男」とともに戦ったイギリスのシンプソン氏の日記からの抜粋である。
その小男とは、日本人「柴五郎」その人。のちに、「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本兵に帰すべきものである」とイギリス公使に言わしめたほどの男である。
2012年7月27日金曜日
あえて低く建てられた「首里城」の意味するもの
「戦いの気配が感じられない城」
沖縄の「首里(しゅり)城」は、そう呼ばれている。
なぜなら、この城には戦闘を象徴する「天守閣」が存在しないからである。天守にあたる朱塗りの「正殿」は、2層3階という低い建物になっている。
◎外交により守られていた琉球王国
15世紀の沖縄に王国を打ち立てた「尚氏(しょうし)」は、「武力」ではなく「外交」で国を守ってきたのだという。
中心たる正殿の左手(北側)には、「中国」からの使節を迎える中国風の建築(北殿)があり、右手(南側)には「日本」から来る薩摩の役人が滞在する建物(南殿)がある。
もともとは中国(明)に貢物を納め保護を受けていた琉球王国(沖縄)であったが、日本に江戸幕府が成立して以降は薩摩藩の侵攻を受け(1609)、中国と日本の二重支配下に置かれることになる。
その両大国の狭間にあって、琉球王国は巧みな外交戦略により独自の地位を確立し、人口が17万人にも満たなかったという小さな王国でありながらも、400年以上にわたる繁栄を謳歌することになる(1429~1879)。
戦う意思を示さない首里城の正殿。それは、巧みな外交姿勢を如実に表現していたのである。低姿勢でありながらも、その内部は威厳に満ちている。朱塗りの王座はじつに壮麗であり、琉球王家の揺るぎなさを物語っている。
2012年6月21日木曜日
魔力をもつ「桜」、かくも潔く。
「本物の桜と間違えて、鳥が止まろうとした」
こんな逸話が残るほどに見事な「桜」を描き切ったのは、江戸時代(後期)の女流画家「織田瑟々(おだ・しつしつ)」という人である。53年という生涯の中で、彼女が描き残したのは「桜のみ」(70点ほど現存)。
「織田」の姓から連想されるように、彼女は戦国時代の一時的な覇者「織田信長」の末裔である(より正確に記すならば、織田信長の九男・信貞の子孫ということになる)。
近江(滋賀)に生まれた瑟々は、お隣りの京都へ出て絵を学ぶ。
ところが彼女が30そこそこの頃、夫(石居信章)に先立たれ、それ以降は髪をおろし「尼」となる。
※「瑟々」と号したのはそれからであり、それまでは「津田政江」という姓名であった(尼になってから、織田姓を名乗るようになった)。
そして、桜に専心するようになったのもその頃からである。
2012年6月19日火曜日
陸の孤島「祖谷(徳島)」
四国のヘソのヘソ、奥の奥と言われる「祖谷(いや)」。
「平家の隠れ里」とも言われるだけあって、その谷の深さはまことに浅からぬものがあるようだ。
2億年もの間、吉野川の激流が削ってきたという「大歩危(おおぼけ)」「小歩危(こぼけ)」という渓谷、その名の由来はそれぞれ、「大股で歩くと危ない」「小股で歩いても危ない」と言い伝えられているほどである。
そうした断崖絶壁に渡されたのは、カズラ(つる)で作られた「かずら橋」という吊り橋のみ。
ひと一人が渡っただけでも、また、よそ風がそよいだだけでも揺れるというカズラ橋。徳島に伝わる民謡には、こう歌われている。「♪祖谷のカズラ橋ゃ~、蜘蛛の巣の如く~、♪風も吹かんのにユラユラと~、♪風も吹かんのにユラユラと~」
平家の落ち武者も、この吊り橋を切り落としてしまえば、源氏の追っ手を谷の向こうに立ち往生させることができたのだとか。
2012年6月6日水曜日
民間人が狙われた本土への大空襲
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