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2012年8月26日日曜日

稲田朋美という政治家の憤。歴史を知り、国を知る。


もし、日本で初めて「女性の首相」が誕生するとしたら…?

それは「稲田朋美」氏(自民党・副幹事長)かもしれない。

森喜朗、阿倍晋三、両元首相等は彼女を「日本のサッチャーだ」と呼び、その他、多くの識者連中も彼女を熱烈に後押しする。



◎気骨ある女性・弁護士


「今、最高裁までがダメだと著書に書くほど勇気のある政治家は、稲田先生の他にいませんよ」、と渡部昇一・上智大学名誉教授は語る。

稲田氏は元々弁護士が本業であり、阿倍晋三・元首相のラブコールによって、政治家となった女性である。その彼女が弁護士時代に、「あぁ、日本は裁判所もダメなんだ…」と深い悲しみと怒りを感じた事件があった。

それは、南京「百人斬り」と呼ばれる事件の訴訟を担当した時のことであった。





2012年8月4日土曜日

武士の末裔「柴五郎」の守り抜いた北京


「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめており、ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じている」

時は1900年、場所は中国・北京。義和団と称する反乱軍は、「扶清滅洋(清をたすけ、外国勢を滅ぼす)」の旗を掲げ、世界各国の公使たちを北京城に追い詰めていた。

20万人以上の大軍を眼前にして、北京城に立て籠もるのは、わずか4000人弱。4000とはいえど、そのほとんどが民間人であったため、兵と呼べる数は500にも満たなかった。

ところが、この絶望的に少数の籠城軍は、およそ2ヶ月間にわたり北京城を守り抜いてしまう。そして、その混沌とした北京城内には、その「小男」の姿が確かにあった。




冒頭の記述は、当時の北京城内でその「小男」とともに戦ったイギリスのシンプソン氏の日記からの抜粋である。

その小男とは、日本人「柴五郎」その人。のちに、「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本兵に帰すべきものである」とイギリス公使に言わしめたほどの男である。



2012年7月24日火曜日

賢人たちの道標となってきた「六然」の教え。


ホテル・オークラの隣にある「大倉集古館」には、勝海舟の書と伝わる「六然訓(りくぜんくん)」という掛軸がある。

「自処超然 処人藹然 有事斬然 無事澄然 得意澹然 失意泰然」

こうした掛軸などがあることで、「六然訓」は勝海舟の言葉とされることも多々あるが、正確に言うならば、この言葉は「明(中国)の崔銑(さいせん)」 という人物によるものである。



◎崔銑 (さいせん) という人物


硬骨漢として知られる彼は、平たく言えば「毒舌家」であり、その舌が災いして牢屋にブチこまれてしまう。というのも、崔銑が時の権力者・劉瑾(りゅうきん)に恐れもなく歯向かい、痛烈に批判したからであった。

時の権力者・劉瑾というのは、「専横いたらざるなし」と言われたほど情け容赦のない宦官であり、当時の人々からはたいそう顰蹙を買っていたのだという。その横暴に対して、心ある有志たちは度々の弾劾を試みるのであるが、その度に皆投獄されていったのである。



投獄されたとはいえ、崔銑に正義があるのは明らか。のちに陽明学の祖ともなる「王陽明」は、崔銑の投獄に大きく異を唱えた。

「諌官(かんかん)の地位にある者を捕らえるとはもってのほか!」

諌官(かんかん)というのは、政治や法律を定める時に、為政者に「忠言」を捧げる役職である。しかしながら、その諌官が暴君に対して忠告すると、決まって殺されるのも常であった(煮られるか、炙られるか、裂かれるか、斬られるか、獄されるか、毒を送られるか)。

それゆえ、死を覚悟して言葉を発する諌官には気骨のある者が少なくなかった。そして、その一人が崔銑 (さいせん)であったのだ。