2012年9月15日土曜日

「食べない」という奇跡。難病の森さんと甲田先生。


人は「食べなければ」生きられない。

しかし、「食べないから」生きられた、という人もいた。

それは、森美智代さんという、ある難病に苦しめられた女性だった。


2012年9月8日土曜日

「空飛ぶ絨毯」の夢。「ものづくり」が生み出すものとは…。


「もし、『空飛ぶ絨毯(じゅうたん)』があれば…、もっともっと多くの命を助けられたのに…」

空飛ぶ絨毯? 何かの冗談か、もしくは聞き間違いか? いや、そのどちらでもない。「空飛ぶ絨毯」と言った久保田憲司氏は「大真面目」だ。本気になって、空飛ぶ絨毯をつくろうとしているのだ。3.11の大震災の時、本気でそう思ったのだ。



天下未曾有の大災害の中、多くの人々が瓦礫の下敷きになっていた。その苦しむ人々を助けようと、懸命に探索するヘリコプター。しかし悲しいかな、ヘリコプターでは近くまで行くことができない。

「あぁ、こんな時に、地面から1~2mの高さをスーッと飛んで、どこにでも垂直に離着陸できる乗り物があれば…」

その乗り物こそが、久保田氏の言う「空飛ぶ絨毯」である。


2012年9月6日木曜日

争い、そして和する。「角館」に残された古き日本の絶妙な間合い。


夜の祭はいよいよクライマックスを迎えようとしていた。

若者たちの表情に緊張が走ったのは、通りの向こうに「隣町の曳山(ひきやま)」の姿を確認した時だった。


ここは秋田県・角館(かくのだて)。江戸の昔に栄えた城下町であった角館には、今の世にも古くからの武家屋敷などが数多く残る。そうした武家の気風が残るのか、この祭りのクライマックスは少々荒々しい。


岸良裕司と稲盛和夫。強く優しき巨人たち。


◎100の宴会芸をもつ男


その学生の特技は「宴会芸」であった。一年生を3回やって、6年間も大学にいたという彼は、毎日昼遅くに起きだして、皆と集まり飲みにく。そんな生活の賜物が、彼の宴会芸であったのだ。

この宴会芸、思わぬところで役に立つ。彼が入社した「京セラ」において、「100の宴会芸をもつ男」として、部長に気に入られ、その部長の部署、海外営業部へと引っ張られていくことになったのだ。

ところが、その宴会男にとって、この話は少しもありがたいものではなかった。なぜなら、外大を出たはずの彼は、英語がてんでダメ。同期は7人いたというが、彼以外は皆、当然のように英語がペラペラであった。

「毎日が苦痛でしかなかった」。そう彼は振り返る。


2012年9月4日火曜日

「非武の島」、沖縄。グアムとの数奇な共通点。


およそ200年前、アジアの国々を巡っていたイギリス艦長は、初めて沖縄(当時・琉球)の人々を目にして驚いたという。

「武器を持っていない…」



その驚きをナポレオンに伝えると、戦闘に明け暮れていたナポレオンはもっと驚いた。

「武器なくして彼らはどうやって戦うのだ?」

ナポレオンの抱いた当然の問いに対して、艦長はこう答えた。「彼らは戦争をしたことがないのだそうです。武器を持たずに、平和を保っているのです」

「なにーっ! 戦争がないだとーーーっ!」。ナポレオンは叫んだ。「この世に戦争を知らない人々がいるなどありえない!」と言わんばかりに。


2012年9月3日月曜日

猛将・平将門を射抜いた神鏑(しんてき)とは? 人の心を惑わす「春の風」。


「春の風」が歴史を変えるなどということは、あり得るのであろうか。

一時、絶大な武力を誇った「平将門(たいらのまさかど)」は、いずくからともなく飛んできた「一本の矢」に倒れた。

その矢が乗ってきた風こそが、春の風だと言うのだが…。




将門のコメカミを射ぬいたという矢は、「将門記」によれば「神鏑(しんてき)」と表現されている。

将門は「目に見えない神鏑(しんてき)」に当たり、「地に滅んだ」とされ、それは「天罰」だとも書かれている。

天が起こした一陣の風、それは春の訪れを告げるという「春一番」ではなかったのか、ということだ。その風が吹くや、「馬は風飛のような歩みを忘れ、人は李老のような戦術を失ってしまった」のである。


「常に不満足であれ」。世界最高峰のパン職人


飛騨の田舎に、「不機嫌なパン職人」がいる。

眉間にシワを寄せ続けるその顔は、怒っているかのようにも見える。



彼は「不満」なのである。

何に不満なのかと言えば、自分の作った「パンの出来」に不満なのである。




彼のパンづくりの技術は、それほどに拙(つたな)いのか?

いやいや、そんなことはあるはずがない。

なぜなら、彼は「世界」でも認められた一流のパン職人なのだ。



彼の名は「成瀬正(51)」。

2005年の世界大会「クープ・デュ・モンド」で日本代表に選ばれ、団体で「世界3位」という輝かしい成績を収めた。

彼はその時のチームリーダーであった。

※クープ・デュ・モンド(Coupe Du Monde)とは、パン職人のワールドカップのようなものであり、3年に一度、フランス(リヨン)で開催される。


太古の香りを残す「尾瀬」。変わらぬことの大切さ


夏が来れば思い出す。「尾瀬」。

その早朝に見られた尾瀬の虹は、なぜか「白かった」。



◎白い虹


真夏とはいえ、10℃にまで冷え込んだその朝、朝日が射しはじめると、尾瀬ヶ原を覆っていた紅の雲海は静かに消え始めた。そして、空が少しずつ明るくなってくる、まさにその時、その「白い虹」は姿を現した。

大地と天空をつなぐ「白いアーチ」。

その神秘的な姿は、ほんの数分もすると、ふたたび尾瀬ヶ原の湿原に帰っていった。まるで「夏の幻」のように…。


2012年9月1日土曜日

金メダルへの想い。なでしこジャパン


思い返せば、去年の女子サッカー、ワールドカップ。なでしこジャパンは、まさかまさかの勝ちを重ねながら、決勝では世界最強のアメリカまでをも打ち負かしてしまった。

「なでしこジャパン、世界一!!!」

この一報に、どれほど日本列島が沸いたことか。この勝利には世界も惜しみない賛辞を送った。FIFA(国際サッカー協会)は、「日本は世界の国が目指すぺきサッカーのスタンダードをつくった」と、”なでしこジャパン”の華麗なる「パス・サッカー」を激賞した。



あれから一年、今回のロンドン・オリンピックでは、「追われる立場」となった”なでしこジャパン”。王者としての宿命からか、世界各国の強豪チームから徹底的に研究され、その戦いは予想以上に厳しいものとなっていった…。

「各国からマークされ、大きなプレッシャーを背負う。それがワールドカップで優勝した日本の宿命なのです(アメリカ・ワンバック選手)」


最期に笑顔を…。悲しい過去にぬくもりを与える「おもかげ復元師」


笹原留似子さん

彼女は特殊な技能をもった女性。その技術とは、故人の痛んだ遺体を、丁寧に復元する技術。彼女は日本でも数少ない「復元納棺師」である。

傷だらけの顔をきれいに洗い、傷口や陥没した部分を脱脂綿で塞ぎ、さらに、特殊なファンデーションなどを使って、生前の姿に復元してゆく…。



◎会わせてあげたい…


その日、笹原さんが訪れていたのは、妻を亡くした飛田啓章さん(36)のお宅。妻・佳子(けいこ)さんは、東日本大震災の大津波により、帰らぬ人となっていた…。

佳子さんが大津波に遭ってしまったのは、幼い子供たちを心配して迎えに行ったその途上。車ごと大波にされわれてしまったのだという…。それでも不幸中の幸いは、子供たちが皆無事だったということ…。

そして、遺体が見つかったのは、その一ヶ月後。ようやく見つかった佳子さんは、車の中で変わり果てた姿となってしまっていた…。



「最期に、子供たちを母親に会わせてあげたい」

夫の啓章さんは、そう強く想ったものの、被災してしまった姿では、とても子供たちに会わせられない。そんな時であった、啓章さんが復元納棺師・笹原さんの存在を知ったのは。


2012年8月29日水曜日

失った自分、そして取り戻した自分。金メダリスト・内村航平

体操の「ウチムラ」と言えば、ロンドン・オリンピックで金メダルを確実視されていた男である。

前回の北京オリンピック、個人総合で日本に24年ぶりのメダルをもたらした「内村航平」。10代でのメダル獲得は史上初であった(当時19歳)。続く世界選手権も、3年連続で制覇。これは体操界、史上初の快挙である。

そして、その万全の状態で臨んだロンドン五輪。しかし、オリンピックという大舞台は、他の世界の大舞台とは一種異なる、独特の雰囲気に支配されていた…。


2012年8月27日月曜日

不妊は女性ばかりの責任か? 日本と世界の差


日本で「不妊」の検査や治療を受けたことのある人は、「6組に一組」という多さであるという。さらに、「体外受精」の件数は年間21万件と世界最多、ここ5年間で倍増している。

こうした事実はひとえに、多くの日本人が子供を産むことを切望している証でもある。そして悲しくも、それが叶っていない証でもある…。

ある専門家はこう指摘する。「日本人は『不妊についての正しい知識』が不足している。そのために、次々と新たな不妊を生み続けているのです」。

はて、不妊についての正しい知識とは?


2012年8月26日日曜日

同じ原発を持つスイスと日本。日本の原子炉爆発をスイスはどう見たか?


フクシマの原発事故は、世界への「問い」となった。

「原子力発電は、是か?非か?」



あれから一年。当初は「感情的」であった反原発の気運は、世界中でスッカリ落ち着きを見せている。

フクシマ原発事故が起きる「前」、世界で建設中の原発は62基(計画中156基)。そして、事故から一年経った現在、世界で建設中の原発は60基(計画中163基)。

フクシマ前後で、その大勢に大きな変化がないことは明らかである。


稲田朋美という政治家の憤。歴史を知り、国を知る。


もし、日本で初めて「女性の首相」が誕生するとしたら…?

それは「稲田朋美」氏(自民党・副幹事長)かもしれない。

森喜朗、阿倍晋三、両元首相等は彼女を「日本のサッチャーだ」と呼び、その他、多くの識者連中も彼女を熱烈に後押しする。



◎気骨ある女性・弁護士


「今、最高裁までがダメだと著書に書くほど勇気のある政治家は、稲田先生の他にいませんよ」、と渡部昇一・上智大学名誉教授は語る。

稲田氏は元々弁護士が本業であり、阿倍晋三・元首相のラブコールによって、政治家となった女性である。その彼女が弁護士時代に、「あぁ、日本は裁判所もダメなんだ…」と深い悲しみと怒りを感じた事件があった。

それは、南京「百人斬り」と呼ばれる事件の訴訟を担当した時のことであった。





2012年8月4日土曜日

武士の末裔「柴五郎」の守り抜いた北京


「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめており、ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じている」

時は1900年、場所は中国・北京。義和団と称する反乱軍は、「扶清滅洋(清をたすけ、外国勢を滅ぼす)」の旗を掲げ、世界各国の公使たちを北京城に追い詰めていた。

20万人以上の大軍を眼前にして、北京城に立て籠もるのは、わずか4000人弱。4000とはいえど、そのほとんどが民間人であったため、兵と呼べる数は500にも満たなかった。

ところが、この絶望的に少数の籠城軍は、およそ2ヶ月間にわたり北京城を守り抜いてしまう。そして、その混沌とした北京城内には、その「小男」の姿が確かにあった。




冒頭の記述は、当時の北京城内でその「小男」とともに戦ったイギリスのシンプソン氏の日記からの抜粋である。

その小男とは、日本人「柴五郎」その人。のちに、「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本兵に帰すべきものである」とイギリス公使に言わしめたほどの男である。



日本の風土が育てた日本の子育て


とある山中、その夜の空は満点の星に輝いていた。

ところが、都会育ちのある子供は、その星空を見てこう言った。「空にジンマシンができたみたいで気持ち悪い」。

ある意味、その子の言葉は独特の感性をもっている。しかし、どうやらその感性は伝統的な日本のそれとはどこか異なっているようだ。





古来の日本人は、夜に鳴くスズムシの音(ね)に「美」を見い出した。それに対して、アメリカ人はその音を「うるさい」としか思わない。

生まれも育ちも異なれば、それは「感性の違い」となって現れる。その違いに良し悪しはないのかもしれない。しかしそれでも、日本的な感性が変化していくことに対しては、一抹の寂しさを感ぜざるを得ない。


2012年7月27日金曜日

あえて低く建てられた「首里城」の意味するもの


「戦いの気配が感じられない城」

沖縄の「首里(しゅり)城」は、そう呼ばれている。

なぜなら、この城には戦闘を象徴する「天守閣」が存在しないからである。天守にあたる朱塗りの「正殿」は、2層3階という低い建物になっている。




◎外交により守られていた琉球王国


15世紀の沖縄に王国を打ち立てた「尚氏(しょうし)」は、「武力」ではなく「外交」で国を守ってきたのだという。

中心たる正殿の左手(北側)には、「中国」からの使節を迎える中国風の建築(北殿)があり、右手(南側)には「日本」から来る薩摩の役人が滞在する建物(南殿)がある。



もともとは中国(明)に貢物を納め保護を受けていた琉球王国(沖縄)であったが、日本に江戸幕府が成立して以降は薩摩藩の侵攻を受け(1609)、中国と日本の二重支配下に置かれることになる。

その両大国の狭間にあって、琉球王国は巧みな外交戦略により独自の地位を確立し、人口が17万人にも満たなかったという小さな王国でありながらも、400年以上にわたる繁栄を謳歌することになる(1429~1879)。

戦う意思を示さない首里城の正殿。それは、巧みな外交姿勢を如実に表現していたのである。低姿勢でありながらも、その内部は威厳に満ちている。朱塗りの王座はじつに壮麗であり、琉球王家の揺るぎなさを物語っている。


夢を翔けた「瀬戸大橋」。ホラ吹き諶之丞、100年の大計。


本州と四国を結ぶ「瀬戸大橋」。

瀬戸内海に散らばる島々を、あたかも飛び石のようにして四国へ伸びる。その巨大な橋の橋脚が置かれた島々は全部で5つ、橋は合計で6本連結されている。





◎橋の守人たち


この海を翔る橋ができてから今年で24年、その間ずっと、この橋を守り続けている人々がいる。

海に架かった部分だけでも全長10km近くもある瀬戸大橋、この長大な橋はたった6人のスペシャリストたちの手によって保守管理されているのだという。

彼らの立つ足場は、目も眩むほどの高所。最大で海面から200m近い。その狭い足場は、36階建ての霞ヶ関ビル(147m)のテッペンよりもずっと高いところにある。





橋全体で用いられているボルトの数はおよそ900万本以上。スペシャリストたちはその一本一本を手で触れ、目で確認して、その安全性を守るために五感を研ぎ澄ませている。

瀬戸大橋は100年保つように設計されているというが、彼らの志はその寿命を倍に延ばすことだ。日々の保守管理を徹底することで、それが可能だと彼らは考えている。


2012年7月24日火曜日

賢人たちの道標となってきた「六然」の教え。


ホテル・オークラの隣にある「大倉集古館」には、勝海舟の書と伝わる「六然訓(りくぜんくん)」という掛軸がある。

「自処超然 処人藹然 有事斬然 無事澄然 得意澹然 失意泰然」

こうした掛軸などがあることで、「六然訓」は勝海舟の言葉とされることも多々あるが、正確に言うならば、この言葉は「明(中国)の崔銑(さいせん)」 という人物によるものである。



◎崔銑 (さいせん) という人物


硬骨漢として知られる彼は、平たく言えば「毒舌家」であり、その舌が災いして牢屋にブチこまれてしまう。というのも、崔銑が時の権力者・劉瑾(りゅうきん)に恐れもなく歯向かい、痛烈に批判したからであった。

時の権力者・劉瑾というのは、「専横いたらざるなし」と言われたほど情け容赦のない宦官であり、当時の人々からはたいそう顰蹙を買っていたのだという。その横暴に対して、心ある有志たちは度々の弾劾を試みるのであるが、その度に皆投獄されていったのである。



投獄されたとはいえ、崔銑に正義があるのは明らか。のちに陽明学の祖ともなる「王陽明」は、崔銑の投獄に大きく異を唱えた。

「諌官(かんかん)の地位にある者を捕らえるとはもってのほか!」

諌官(かんかん)というのは、政治や法律を定める時に、為政者に「忠言」を捧げる役職である。しかしながら、その諌官が暴君に対して忠告すると、決まって殺されるのも常であった(煮られるか、炙られるか、裂かれるか、斬られるか、獄されるか、毒を送られるか)。

それゆえ、死を覚悟して言葉を発する諌官には気骨のある者が少なくなかった。そして、その一人が崔銑 (さいせん)であったのだ。


鳥人的な空中感覚。内村航平に見える景色。


内村航平、23歳。

彼の成し遂げた世界選手権での3連覇は、体操競技において前人未踏の大記録であった(2011)。しかも、その3連覇を決めた東京大会においては、2位に3点以上もの大差をつける圧勝である。

2位以下の選手は、内村選手の抜きん出た妙技を褒め称えるより他にない。「ロンドン五輪もウチムラで決まりだ…」。



◎微動だにしない着地


国際体操連盟の元技術委員長だったフィンク氏は、内村選手の「着地の見事さ」を高く評価する。

「彼の着地は文章に句読点を打つようなもの。ピタリと止まることによって、審判の採点に良い影響を与えます。ウチムラの技術は世界最高です」

着地はわずかなミスでも減点の対象となってしまうため、演技全体の出来を大きく左右する重要な要素である。この点、着地を得意とする内村選手は圧倒的なアドバンテージをもつ。





鉄棒から飛び出した空中の彼は、他の選手よりも1回多くひねる。通常は2回のところ、内村選手は3回ひねるのだ。

1.5倍になった回転力は、当然のように着地をより難しくする。そのひねりの回転の速さは、世界選手権の審判でも見落としてしまうほどだ(日本チームの指摘により、得点は訂正された)。

そんな凄まじい回転のスピードでさえ、内村選手はピタリと止めてしまう。まるで高速の車に急ブレーキをかけたのに、シートから背中が少しも離れないように。

なぜ、彼の着地はそれほどまでに美しく決まるのか?


2012年7月14日土曜日

クモの糸一本で絶滅を免れた「クニマス」の物語


その墨色をした魚は、その地元秋田県でも「幻の魚」とされてきた。

なぜなら、その幻の魚「クニマス」の暮らしていた湖は、日本一の深さを誇る「田沢湖」である(水深423m)。その深い深い湖底に遊ぶクニマスの姿はおいそれと拝めるものではなく、目にするのは産卵後に死んで、湖水に浮かぶ姿くらいのものであった。



◎深き湖底に閉じ込められた「クニマス」


「サケ科」の魚というのは元々、海と川を行き来するものであったが、その長き往来の途上、何らかの理由で川から出られなくなるモノもいた。

幻の魚・クニマスもそうして陸に閉じこめられた「陸封型」のサケであり、その閉じ込められた先は、幸か不幸か、日本一深い湖底であったのだ。

それゆえ、クニマスほど独自の進化を遂げたサケも珍しい。外部の干渉の少ない湖の底は、その個性を発揮するのに十分な環境であったようだ。イワナよりはやや小さい印象のある外見こそは、近縁種のヒメマスと似ているものの、その内部気管や生態などは実に独特なものであった。


2012年7月10日火曜日

「豊かさ」を測る新しい経済指標。日本は世界一。


その国の「国力」を表す最大の指標は、現在、GDP(国内総生産)という数字である。

この数字によれば、世界最大の国力を有する国家はアメリカであり、日本のGDPは10年も20年も失われたとされ、挙げ句の果てに数年前には中国に追い抜かれて3位に転落した。

名目GDP(USドル)の推移(1980~2012年) - 世界経済のネタ帳


しかし、このたび国連が示した新しい指標を見ると、なんと日本は世界最高の「人材」を有している国家であると高く評価されていた。

3.11 大震災の大混乱時における日本国民の「立派なふるまい」は世界を刮目させることにもなったわけだが、今回の指標はそのご褒美ではなく、国民の教育や労働熟度などを勘案されたものであった。

この指標に従えば、日本は依然として中国よりも豊かな国家であり、両国の間には、2.8倍という厳然たる開きが存在する。


2012年7月5日木曜日

日本の海を拓いた「平清盛」


「清盛さん、清盛さん」と、その町の住人たちは「平清盛」に親しげだ。

この町にある「音戸の瀬戸」には、およそ800年以上も前に平清盛が開削したという伝説が残されている。

※「音戸の瀬戸」というのは、広島県呉市と瀬戸内海の島の一つである倉橋島(音戸町)の間の「狭い海峡」のことであり、最も狭いところでは100mも幅がない。



2012年6月29日金曜日

使うほどに燃料が増えるという「夢の燃料」プルトニウム


そこには、「プルトニウムの缶詰」というものが置いてあった。

「プルトニウム」というのは断じて食品ではない。毒も毒、半減期2万4000年という化け物のような放射性物質である(原子番号94は、"苦しんで死ぬ"と覚えるのだとか)。

「その缶詰は、ポカポカと温かかった」と伊原義徳さん(88)は語る。プルトニウムが崩壊していく過程で発せられる「崩壊熱」で温かかったのだ。



彼がその缶詰に触れた場所は「アメリカ」。それは、伊原さんが「原子力」の技術を学ぶためにアメリカのアルゴンヌ国立研究所に留学していた時のことであった。当時、世界随一の原子力技術を誇っていたアメリカ。それだけに、猛毒・プルトニウムの扱いもお手の物であったのである。小さな缶に閉じ込めてしまうほどに。

アメリカの原子力に対する知識や技術に感銘を受けた伊原さんは、「あぁ、日本でも早くこんな缶詰が作れたらなぁ」と切に願ったという。



2012年6月26日火曜日

中国山地で舞われ続ける「神楽」


数々の「神話」の舞台となっている「中国山地」では、数千もの舞い(神楽)が今の時代にも舞われ続けているという。

舞い続ける人々は、その舞いがどのような意味を持つのかも忘れてしまっていることが多いというが、それでも神楽の舞いは脈々と続けられているのである。



そんな中、鳥取県西部一帯に伝わる「大元神楽(おおもとかぐら)」の目的は明瞭である。

大元神楽の目的は、「神の声」を聞くことにある。

大元信仰の神である「大元さま」は、普段は高い山や深い谷、大きな樹などに宿っているとされているが、神楽が舞われる時にだけ、人に降りて来てくれるのだそうな。



2012年6月24日日曜日

対の神々の産んだ子供たち。日光


「日光(にっこう)」という信仰の地は、江戸時代に徳川家康が祀られたことにより一躍有名になった土地であるが、その信仰の歴史はそれよりもずっと古い。

「日光」という文字が文献に現れるのは「鎌倉時代」。言い伝えによれば、さらに時代が下る「空海」がこの文字を当てたのだという(空海は820年に日光を訪れたとされている)。



それ以前の記録(記紀六国史)では、「日光」という漢字ではなく、「二荒(にっこう)」という漢字が当てられている。

元々の「二荒」は「ふたら」と読まれ、それは「山の崩落部」を表す古語であったとともに、「二荒神」という神様を表すものでもあったのだという。

その二荒神を祀るという日光の「男体山(なんたいさん)」はかつて「二荒山(ふたらさん)」とも呼ばれた山である(その山頂には「二荒山神社」が鎮座している)。



2012年6月21日木曜日

魔力をもつ「桜」、かくも潔く。


「本物の桜と間違えて、鳥が止まろうとした」

こんな逸話が残るほどに見事な「桜」を描き切ったのは、江戸時代(後期)の女流画家「織田瑟々(おだ・しつしつ)」という人である。53年という生涯の中で、彼女が描き残したのは「桜のみ」(70点ほど現存)。

「織田」の姓から連想されるように、彼女は戦国時代の一時的な覇者「織田信長」の末裔である(より正確に記すならば、織田信長の九男・信貞の子孫ということになる)。




近江(滋賀)に生まれた瑟々は、お隣りの京都へ出て絵を学ぶ。

ところが彼女が30そこそこの頃、夫(石居信章)に先立たれ、それ以降は髪をおろし「尼」となる。

※「瑟々」と号したのはそれからであり、それまでは「津田政江」という姓名であった(尼になってから、織田姓を名乗るようになった)。

そして、桜に専心するようになったのもその頃からである。


2012年6月20日水曜日

「犬神」のもたらす好ましからざる富


四国・徳島の山あいに、「賢見(けんみ)神社」という一風変わった神社がある。

何が変わっているかというと、この神社は日本で唯一、「犬神」を祓う神社なのだそうな。




そのお祓いの特徴は、「金幣」という鈴のついたジャラジャラで参拝者の邪気を払うところにあるという。また、高音と低音がおりなす祝詞(のりと)も独特の調子である。

※賢見神社の創建は、およそ1300年以上も前の5世紀末、聖徳太子のちょうど生まれる頃である。この社名の由来は「犬を観る→犬(けん)観(み)→賢見(けんみ)」。




なぜ四国にこのような神社があるのかというと、四国は古くから「犬神の本場」とされてきたからである。

四国に犬神の多い理由は、この地に「狐」が住まぬゆえだといわれる。ほかの地方ではキツネの仕業とされる「狐憑き」までが、すべて犬の仕業とされてきたのだとか。


自ら立ち上がらんとする被災地の民


世界のエリート集団が東北の「被災地」に現れた。

彼らエリートたちが属するのは、ハーバード大学の大学院「ケネディ・スクール」。世界各国の首脳やリーダーなどを幾多と輩出してきた世界のリーダー養成機関である。

※創設から400年近くがたつハーバード大学は、オバマ大統領はじめアメリカで8人の大統領、そして75人のノーベル賞受賞者を出している。




ちなみに彼らは大学院生とは言えど、すでに社会に出て各国政府で働いたり国際組織で働いていたりと、10年以上の職歴を持つ者も少なくない。

ある者はホワイトハウスで働いていたり、ある者は国境なき医師団の責任者であったり…。



世界の目を持つ彼らは「被災地」で何を見たのか?

日本の政府要人たちとも面会した彼らは、日本政府の対応をどう評価したのか?


風評は「情報の一つ」。星野佳路氏


東日本大震災(2011)の被災地となった東北地方。

それ以来、「風評被害」という言葉が東北のアチラコチラから絶えず漏れ聞こえてくる。



風評被害という言葉には、「どうしようもない」「しょうがない」といった諦観が漂っている。

それもそのはず。今季の東北のスキー場などでは「集客が半減した」というところも珍しくなく、場所によっては8割減などという信じ難い数字までがあるようだ。

そんな恐ろしい数字を見てしまえば、「風評被害のせいだ」と責任追求したくもなるだろう。



それでも、「星野佳路」氏は10年後の東北を見据えている。

「(震災が起こる前の)2010年の東北よりも、2020年には遥かに強い東北をつくる」

星野氏はリゾート開発の達人であり、今までに幾多となく廃れた観光地に新しい息吹を送り込んできた。



2012年6月19日火曜日

陸の孤島「祖谷(徳島)」


四国のヘソのヘソ、奥の奥と言われる「祖谷(いや)」。

「平家の隠れ里」とも言われるだけあって、その谷の深さはまことに浅からぬものがあるようだ。

2億年もの間、吉野川の激流が削ってきたという「大歩危(おおぼけ)」「小歩危(こぼけ)」という渓谷、その名の由来はそれぞれ、「大股で歩くと危ない」「小股で歩いても危ない」と言い伝えられているほどである。



そうした断崖絶壁に渡されたのは、カズラ(つる)で作られた「かずら橋」という吊り橋のみ。

ひと一人が渡っただけでも、また、よそ風がそよいだだけでも揺れるというカズラ橋。徳島に伝わる民謡には、こう歌われている。「♪祖谷のカズラ橋ゃ~、蜘蛛の巣の如く~、♪風も吹かんのにユラユラと~、♪風も吹かんのにユラユラと~」

平家の落ち武者も、この吊り橋を切り落としてしまえば、源氏の追っ手を谷の向こうに立ち往生させることができたのだとか。



日本発、世界に広まる「タコ食い」


「タコ」の価格がウナギのぼり?

今やスーパーのタコは「高級品」。安いマグロや肉などよりもよっぽど高い(100gあたり300~400円)。国際市場は前年比で30%近く上昇しているとのこと。

さらに悪いことには、先月までの円安の影響で輸入商社は今月分の買い付けを見送ることろもでてきている。そのため、4月の小売価格はさらに30%値上がりしたという。

このままでは、真っ赤なタコにタコ焼き屋さんも真っ青だ。




ところで、我々日本人が食するタコはどこからやって来るのだろう?

国内産は3割程度にすぎず、他7割は「輸入」に頼っているというのだが…。


2012年6月18日月曜日

「吉野」に散る桜と、蘇りの「熊野」


桜が満ちる春の吉野山(奈良)。

山々から溢れ返えらんばかりの桜の木々はおよそ3万本。

これほど多くの桜の木々がこの地に育まれてきたのは、吉野には桜を「御神木」として大切にしてきた歴史があるからなのだという。




桜の木々に取り囲まれるように佇む「金峰山寺(きんぷせんじ)」には、こんな伝説が残る。

今から1300年以上も前、「役小角(えんのおづぬ)」という修験道の行者は吉野の山中で修行に明け暮れていた時のこと。

役小角の山々への祈りは巨岩から「蔵王権現(ざおうごんげん)」をこの世にいだす。そして、眼前に現れいでた蔵王権現を役小角は「桜の木」で彫り上げたのだそうだ。

それ以来、桜の木は「御神木」とされ伐採を禁じられることとなる。



2012年6月15日金曜日

ウンコをしたら、ウンコを流そう。たった一つのルール。


「ウンコをしたら、ウンコを流そう」

これが「奇跡の避難所」とのちに呼ばれる明友館(宮城・石巻)の「たったーつのルール」だった。



「流す」といっても、簡単なことではない。

ボタン一つを押せば流れるわけではなく、「外から排水溝の上澄みをすくってきて流すしかない」。

なにせ、ここは大震災直後の被災地である。



狭い場所にギュウギュウに詰め込まれた避難所にあって、「細々しい決め事」が多ければ、逆にトラブルの元ともなりかねない。

それなら、「ウンコをしたら、ウンコを流そう」。

この最低限のルールだけ、守ってもらおうじゃないか、となったのだ。


2012年6月13日水曜日

憤怒の「蔵王」、静かなるひと時。


昔々、雪深い山あいのその村は、「冬は寝て暮らす」より他になかったという。

なにも、好き好んで寝ているわけではない。それより他、何もできぬ土地柄だったのである。米を作るにも不向きで、冬場に山上から吹き降ろす寒風は、全てを凍てつかせてしまうのだ。

ここは「蔵王」の麓の村である(山形)。



「蔵王」という名は、かの「蔵王権現」からとられている。

蔵王権現というのは、修験道の祖とされる「役行者」が呼び寄せたと謂われる仏様である(この仏様は、珍しくもインドや中国に起源を持たない、「日本独自」の仏様なのだとか)。



何故、そのような名がつけられたかと言えば、その山があまりにも「荒ぶる山」だったためである。100万年前から続くという「火山活動」。地の底深くマグマのたぎる火の山は、火を噴いてやまなかった。

その「荒ぶる山」を鎮めようと、都からは何人もの修験者たちが送り込まれ、その頂きに多くの神々を祀った。そして、その祈りの中心が「蔵王権現」だったのである。


2012年6月12日火曜日

生き続ける「奇跡の人」。小野春子氏


「小野さん、あなたは4、5年前に死んでいるはずだ。

なぜ、生きているんですか?」



医者がそう言うのも無理はない。

「医学的なデータ」だけを見れば、彼女はすっかり死んでいておかしくない。しかし、それでも彼女は生きている。82歳の小野春子さんは、ちゃんと生きている。



ある時の心配停止は一時間にも及んだ。彼女が蘇生した頃には、葬儀の準備がすでに始まっていたほどだ。

末期ガン、心筋梗塞、全身麻痺、失明…、彼女を襲った難病奇病を挙げていけば、枚挙にいとまがない。そんな艱難辛苦に遭いながらも、それらをすべて克服してきたというのであるから、それは人智を超えていると言わざるを得ない。


2012年6月11日月曜日

閉鎖性が神性を育んだ「摩周湖」


「霧の摩周湖」

北海道の山上に位置するこの湖は、古来より「山神の湖」として、アイヌの民により自然崇拝されてきた湖である。

※摩周湖をアイヌ語で言うと、「キンタン(山にある)・カムイ(神の)・トー(湖)」となる。


2012年6月7日木曜日

「ムラの掟」に縛られ続ける日本人


「『政策』ではなく、『政局』で政治が決まるのは、日本の特殊な現象だ」

経済学者の池田信夫氏は、そう語る。

「政局」というのは、政党や政治家の「動き」であり、そして、それらの「つながり方」でもある。



たとえば、元民主党代表の小沢一郎氏は、「公的には何の地位にも就いていない」にも関わらず、その去就が現在の政局の焦点となっている。

それは、とりもなおさず「彼を中心とする『非公式の人間関係』が、決定的に重要だからである(引用部分は池田信夫氏の記事より)」


2012年6月6日水曜日

民間人が狙われた本土への大空襲


時は第二次世界大戦、最末期。それは終戦の年(1945)である。

日本軍には勝ち目がないどころか、戦闘余力も怪しくなりつつある中、アメリカ軍ばかりが元気一杯で、日本本土に対する「空襲」を盛んに繰り返していた。

日本国内の主要都市は言わずもがな、地方都市でさえ、空爆を受けなかった都市を数える方が早いほどに、ありとあらゆる都市に焼夷弾の雨が降り注いでいた。