「戦いの気配が感じられない城」
沖縄の「首里(しゅり)城」は、そう呼ばれている。
なぜなら、この城には戦闘を象徴する「天守閣」が存在しないからである。天守にあたる朱塗りの「正殿」は、2層3階という低い建物になっている。
◎外交により守られていた琉球王国
15世紀の沖縄に王国を打ち立てた「尚氏(しょうし)」は、「武力」ではなく「外交」で国を守ってきたのだという。
中心たる正殿の左手(北側)には、「中国」からの使節を迎える中国風の建築(北殿)があり、右手(南側)には「日本」から来る薩摩の役人が滞在する建物(南殿)がある。
もともとは中国(明)に貢物を納め保護を受けていた琉球王国(沖縄)であったが、日本に江戸幕府が成立して以降は薩摩藩の侵攻を受け(1609)、中国と日本の二重支配下に置かれることになる。
その両大国の狭間にあって、琉球王国は巧みな外交戦略により独自の地位を確立し、人口が17万人にも満たなかったという小さな王国でありながらも、400年以上にわたる繁栄を謳歌することになる(1429~1879)。
戦う意思を示さない首里城の正殿。それは、巧みな外交姿勢を如実に表現していたのである。低姿勢でありながらも、その内部は威厳に満ちている。朱塗りの王座はじつに壮麗であり、琉球王家の揺るぎなさを物語っている。