2012年9月6日木曜日

争い、そして和する。「角館」に残された古き日本の絶妙な間合い。


夜の祭はいよいよクライマックスを迎えようとしていた。

若者たちの表情に緊張が走ったのは、通りの向こうに「隣町の曳山(ひきやま)」の姿を確認した時だった。


ここは秋田県・角館(かくのだて)。江戸の昔に栄えた城下町であった角館には、今の世にも古くからの武家屋敷などが数多く残る。そうした武家の気風が残るのか、この祭りのクライマックスは少々荒々しい。





同じ通りで鉢合わせし、額を突き合わせた2つの「曳山(ひきやま)」。双方ともに、道を譲る気配は微塵も見せない。

ここで出番が来るのは、「交渉員」と呼ばれる若者たちで、彼らが両陣営の代表として交渉にあたることになる。現在火花を散らし合っているのは、「大塚地区」と「中央通り」、2つの曳山である。



(大塚地区)「我々は自町へ帰るところ。安全に通行できるように『協力』してほしい」。「協力」というのは、「道を譲れ」という意味である。


協力という名の「譲歩」を迫られた「中央通り」の交渉員は、自分たちの曳山の責任者に相談に戻る。「向こうが『協力』をお願いしてきたのならば、こちらも『協力』をお願いする。それで、いぐねが?」と、その責任者は交渉員の若者に諭す。



再び交渉に戻った「中央通り」の交渉員は、こう切り出す。

「こちらからも『協力』をお願いしたい」

その言葉を聞いた「大塚地区」の交渉員は、とたんに気色ばむ。「ということは、こちらの『協力』が飲めぬということか?」と。



慌てる「中央通り」の交渉員。

「で、できないとは一言も言っていない…。」

いよいよ気が立ってくる「大塚地区」の交渉員。「できないという返答でなければ、先ほどからのうちの協力要請はどうなる?」



タジタジとなりながら、引き上げる「中央通り」の交渉員。再び責任者の元へ。じっくりと交渉員の話に耳を傾けていた責任者は、重々しく口を開いた。

「へば…、いくっ!」



他方、激昂しつつある「大塚地区」でも、

「次で切るっ!」



交渉決裂である。

両陣営とも、曳山の鼻面を大きく持ち上げ、威勢よく「ぶつかり合う」。こうなってしまったら、相手の曳山を横に揺さぶり、強引に道を譲らせたほうが「勝ち」である。




ぶつかり合いが始まるや、両地区の住民たちは自陣の曳山に群がり、盛んに囃し立てる。太鼓が鳴り響き、笛の音も勢いを増す。角(つの)のぶつけ合いは、両者一歩も譲らない。ギリギリと木が軋み、自慢の鼻面はガリガリと削れていく。

時計が深夜を回っても、一向にラチがあかず、両陣営は頭をぶつけ合ったまま、時間ばかりが過ぎていく。すると、その膠着状態を見かねてか、町の「長老」から両陣営の責任者に「呼び出し」がかかった。



長老は、両陣営の責任者に語りかける。

「再度の交渉を。そして打開策を。できなければ、他を入れる。」




深夜2時を過ぎて、そろそろ限界に達しつつあった両陣営にとっては、渡りに船。両者の曳山は静かに離れていった。

この「曳山ぶつけ」という行事は、たいがい深夜4時頃までには決着がつくようになっている。このお祭りの終わりは「日の出」とされているからだ。



この祭りでは、男たちが荒くれる一方、女たちは優雅な舞いを披露する。

「にぎやかし」と呼ばれるのは、町の家々の真横に曳山をつけて、若い女性たちが手踊りを披露する行事である。

小さい子は3歳くらいから、大きくとも20代の美しき女性たちの舞いである。



動的な男性と、静的な女性。

男女ともに若者たちが前面に出て、祭りの各場面を盛り上げる。



きっと「伝統」というものは、こうした形で若者たちに受け継がれていくものなのであろう。男たちは戦い、そして引き際をこそ心得なければならない。女たちは、美しくもそれを支える。

伝統的な武家屋敷や商家などが残る角館では、そこに育った若者たちの心の中にも、自ずと古きものを大切にするような気持ちが根付くらしい。



角館に残る古き武家屋敷は、残されるべくして残されたというよりかは、歴史の片隅に「忘れ去られてしまっていた」と捉えるほうが素直である。

江戸時代には一国一城令によって角館のお城は破却され、明治時代の廃藩置県によって、郡の中心は角館から大曲に移された。こうして中心から次第に離れていったことで、角館には明治近代化の波が及ばず、その結果、江戸以来の町並みが温存されることになったのである。




お祭りにおける喧嘩や和解は、たぶんに芝居めいたところがあるのも事実である。

しかし、その喧騒の持つ独特の雰囲気や緊迫感は、若者たちを「本気」にさせてしまうこともシバシバだ。交渉役という重責を任された若者は、それが形だけのものとは頭で理解しながらも、融通が利かない相手方に本気で腹を立ててしまうかもしれない。両者激突の矢面に立たされる若者たちは、手加減など忘れてしまうこともあるだろう。

こうした争いの裏に見え隠れする年上の責任者や町の長老たちは、象徴的でありながらも、じつに示唆的な存在でもある。アクセル全開になってしまった若者たちの暴走を制御したり、方向を変えたりする存在でもあるのだから。

ついついヤリ過ぎてしまって、退くに退けなくなってしまった若者たちにとって、絶妙なタイミングで入る助け舟の何と有り難いことか。永遠に争い続けることは不可能なことで、いつかは和解しなければならない。しかし、それを自ら口にすることは、激昂した若者たちにとってはできるわけがないのである。



時として争いは必要である。しかし、争い続けることはできない。

角館の若者たちは、お祭りという特殊な場を通じて、こうした「間合い」を学んでいくのであろう。古き日本において、人を育ててきたのは、こうした社会だったのかもしれない。特別に有能な指導者がいなくとも、伝統という枠の中で人は育っていったのだろう。



一転、現代の社会はどうだろう?

大人たちのつくった社会に若者たちは納得しているのであろうか。その社会は、人を育てることができるのだろうか。

皮肉な言い方をすれば、現代社会にいるのは反面教師ばかりなのかもしれない。若者たちは、「ああはなるまい」と心に決めることで育っていくのかもしれない。大人たちがおおよそ頼りにもならないとしたら、若者たちは自らの道を切り拓く気にもなるだろう。

歴史上の革命は、そんな気運の中で成されてきたものでもある。




伝統的な武家屋敷を彩る角館の「しだれ桜」は、樹齢300年近いものもあるという。かつて広江美之助教授(京都大)は、「実にいい桜だ。日本一のしだれ桜だ」と絶賛したのだという。

ところが、その一方でこうもつぶやいた。「惜しいことに、死ぬ寸前だ…」

道路の舗装により、根っこに十分な水分が行き渡らず、土壌も窒息状態。さらには自動車の排気ガスが追い打ちをかける。社会が人を育てるように、桜を育てるのはその環境なのである。



便利になった現代社会の裏には、不当に虐げられているものもあるということか。

それでも、必要以上に悲観することはない。どんなに見事な桜とて、いつかは枯れる時が来るものだ。もう一度その勇姿が見たいのであれば、また植えれば良いでないか。

そして、次の300年間を待てば良いではないか。



幸いにも、現代社会にそれらの種は残されている。

それは桜だけに限った話ではないだろう。







出典:新日本風土記 「角館」

0 件のコメント:

コメントを投稿