2012年9月3日月曜日

猛将・平将門を射抜いた神鏑(しんてき)とは? 人の心を惑わす「春の風」。


「春の風」が歴史を変えるなどということは、あり得るのであろうか。

一時、絶大な武力を誇った「平将門(たいらのまさかど)」は、いずくからともなく飛んできた「一本の矢」に倒れた。

その矢が乗ってきた風こそが、春の風だと言うのだが…。




将門のコメカミを射ぬいたという矢は、「将門記」によれば「神鏑(しんてき)」と表現されている。

将門は「目に見えない神鏑(しんてき)」に当たり、「地に滅んだ」とされ、それは「天罰」だとも書かれている。

天が起こした一陣の風、それは春の訪れを告げるという「春一番」ではなかったのか、ということだ。その風が吹くや、「馬は風飛のような歩みを忘れ、人は李老のような戦術を失ってしまった」のである。





「将門記」による「将門の最期」の場面では、丁寧に「風」の状態が記されている。

戦いの序盤においては、将門が「風上(順風)」にあり、敵方である藤原秀郷・平貞盛は「風下(咲下)」にあった。

轟々と吹き荒れる強風は、両軍の「盾」を軽々と吹き飛ばしてしまったため、両軍ともに「盾を捨てて合戦した」ほどである。木々の枝は風に鳴り、地鳴りとともに砂埃が舞い上がる。




対峙したばかりの両軍には、明らかな戦力差があった。

将門400に対して、秀郷・貞盛はおよそ3,000(将門の7倍以上)。将門の軍勢は先の合戦において大敗し、将門はその敗走の途上にあったのである。



それでも将門の軍勢の精強さは比類ない。「賊軍(将門)は雲の上の雷のようであり、官軍は厠(便所)の底の虫のようだ」。

加えて、強烈な追い風(順風)が将門に味方したのである。官軍は瞬く間にその数を減らし、3,000もいたはずの兵が、いつの間にやら300にまで激減してしまっていた。



自らの強さに酔う将門。

まさか、この後の惨事を知りようもない。



その時である。

悠々と本陣へ帰還しようとしていた将門の背後から、とんでもない突風が吹きつけたのは。

今までの風が急反転。風上は風下に変わり、そして、その風が一本の矢(神鏑)を乗せてきた。



将門には「六人の影武者」がいるとされ、将門本人を特定するのは至難の業とされていた。

ところが、その神鏑(しんてき)は「白い息」を吐くという本物の将門を知っていた(影武者は藁人形と言われており、吐く息は白くならない)。



それでも、将門の全身は「鉄」のように固く、矢も刀も受け付けないはずだった。

しかし、なぜか「コメカミ」だけは「生身」であった。

神鏑(しんてき)は、将門唯一の生身の部分であるコメカミを正解すぎるほどに射抜くことになる。



まさかの討ち死。

以後、首を刎ねられ、都に晒し首とされた将門は、切り離された胴体を求めて怨霊と化すことになる。

※その祟り(たたり)を鎮めるために、「胴体」は神田明神(「かんだ」は身体に通ず)に、「首」は将門塚(首塚)や御首神社などに祀られている。その周辺で奇怪な死が起こるたびに、「将門のタタリ」は現代でも取り沙汰される。





春の嵐は予断がならない。

平将門ほどの歴戦の猛者とて、そうであった。

春一番が様々な悪事を引き起こすのは、将門のタタリの一つなのでもあろうか。



「春」という晴れ晴れしい響きとは相まって、春ほど風が暴れる季節は他にない。

※過去30年間の統計では、東京の強風(風速10m以上)日数は春(3~4月)が最も多い。

時には列車を脱線させ、時には大イチョウをなぎ倒す。




なぜ、春を選んで強風が吹き荒れるのかと言えば、それはシベリアの「寒気」と南太平洋の「暖気」が日本列島の真上でせめぎ合うからである。

北上する暖気に対して、もともと北にいる寒気は東進(右へ移動)しようとする。

するとその境で、上(北)へ向かう暖気が右(東)へ向かう寒気に擦(こす)りつけられ、その結果、反時計回りの「風の渦(低気圧)」が発生する。




その風の渦(低気圧)は、暖気と寒気の境をコロコロと転がりながら、東(右)へと去って行く。

冬の寒気が強ければ、その境は日本列島にかぶさることがないのだが、春の暖気が強まるに連れ、その境が日本列島上空にまで及び、さらに強まれば日本海海上にまで勢力を広げる。



春の嵐が風を強めるのは、寒気と暖気の境が日本海海上にまで押し上げられた、まさにその時。

猛烈な強風が、日本海海上の低気圧を目指して吹きつける。それこそが「春一番」と呼ばれる風である。

その風には、春の「のどかさ」など微塵もなく、吹きすさぶ強風に我々はただただ耐え忍ぶのみである。その風速が20mを超えることも珍しくない(風速が20mを超えると、子供や老人などは吹き飛ばされそうになる)。




平将門を襲った風は、急にその方向を真逆に変えたのだというが…。

風向きというのは、一日の合戦の最中にそれほど大きく変わるものなのであろうか。



気象予報士によれば、それは十分にあり得ることなのだという。

寒気と暖気の境をコロコロと転がりながら右(東)へ移動する低気圧は、南(下)からの風を日本列島にもたらすものの、その前線が過ぎてしまえば、今度は真逆の北(上)から寒風が吹き降ろす。

いわゆる、春一番のあとの「寒の戻り」を誘う風である。前線の移動スピードが早ければ、風が逆転することに1時間もかからないのだそうだ。



将門最期の戦は、そんな気まぐれな春の風に翻弄されたことになる。

その序盤では「春一番」に助けられ、そして終盤、「寒の戻り」によって逆転させられてしまったのである。




暦をめくれば、今は立春(2月4日)と春分(3月20日)の間にあり、まさに春一番の吹く季節。

春夏秋冬、4つに分けられる季節は、「二至(冬至・夏至)」と「二分(春分・秋分)」を各季節の「中心」と定め、その各季節の境として「四立(立春・立夏・立秋・立冬」を設けてある。

すなわち、立春と春分に挟まれた時期は、寒さのピーク(立春)を過ぎ、春がそのピーク(春分)に向かわんとしている時なのである。



中国の五行思想によれば、この季節は「風」と関連が深く、人間の「怒」を乱すとも言われている。

「努」を起こすのは「自律神経(交感神経・副交感神経)」の乱れとされ、その自律神経を司るのは「肝臓」である。

春のもたらす春一番が「風邪(ふうじゃ)」を暴れさせ、それが人の感情を揺さぶり、肝臓をも弱らせるとのことだ。




春の風は、大地を吹き抜けるばかりでなく、人の感情をも逆撫でにするということか。

それは、冬のもつ「陰の力」と春のもたらす「陽の力」がせめぎ合うためでもあると説明される。

※そのせめぎ合いは、シベリアの寒気と南太平洋の暖気の如し。



春の陽は暖かさを導く一方で、「乾燥」をも招く。

陰の気が「鎮静」と「潤い」を人に与えるのに対して、陽の気は「興奮」と「乾燥」をもたらす。

このバランスが崩れた時に、「風邪(ふうじゃ)」は暴れ、人はそれに翻弄される。



冬と春の境目は、陰の気が尽きようとする季節。

風邪(ふうじゃ)に害されぬためには、残り少なくなった「陰の気」を大切にすることが肝要である。

「秋冬養陰」とも言われるように、この寒い季節に「陰の気」を養うことで、「衛気(えき)」と呼ばれる身体を守るバリアが強められ、風邪(ふうじゃ)を寄せ付けなくさせるのだという。



春という希望の到来は、まことに好ましい。

しかし、その希望のもたらす「負の側面」もあることにも目を向けるべきである。急激な変化は、過剰な風(春一番)を巻き起こし、そして、再び寒気をも招き込む(寒の戻り)。

一方、寒さという好ましからざる事態にも、「正の側面」があることも認識すべきである。人間にはこの時期にしか養えない「気(衛気)」もあるのである。



我々の時代は今、季節が変わるように、変化を迎えようとしているのかもしれない。

次代への希望もあれば、前時代に対する反省もある。それでも、次代は光ばかりではなかろうし、前時代が闇ばかりでもなかった。



物事が変わりゆくその時、過ぎ去りしモノを大切にするくらいの余裕は必要なのでもあろう。

昨年訪れた「アラブの春」は、今年に入り「寒の戻り」に苦しんでいるようにも見える。




人間は変化を求めながらも、少しずつしか変われない性(さが)を持つのだという。

それでも、変化をもたらすには、春一番のような強烈が風が必要なことも事実である。たとえ、強烈なブリ返しが襲ってくるのが分かっていたとしても。



春の風はそんなジレンマの中を、いつも素知らぬ顔で吹き抜けてゆく…。

そして、いつの間にか、季節は変わるのだ。







出典:お天気バラエティー 気象転結
「ホントは怖~い!?春一番」


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