2012年9月6日木曜日

岸良裕司と稲盛和夫。強く優しき巨人たち。


◎100の宴会芸をもつ男


その学生の特技は「宴会芸」であった。一年生を3回やって、6年間も大学にいたという彼は、毎日昼遅くに起きだして、皆と集まり飲みにく。そんな生活の賜物が、彼の宴会芸であったのだ。

この宴会芸、思わぬところで役に立つ。彼が入社した「京セラ」において、「100の宴会芸をもつ男」として、部長に気に入られ、その部長の部署、海外営業部へと引っ張られていくことになったのだ。

ところが、その宴会男にとって、この話は少しもありがたいものではなかった。なぜなら、外大を出たはずの彼は、英語がてんでダメ。同期は7人いたというが、彼以外は皆、当然のように英語がペラペラであった。

「毎日が苦痛でしかなかった」。そう彼は振り返る。





◎ペンペン草も生えない


その宴会男の名前は、「岸良裕司(きしら・ゆうじ)」。京セラの社長・稲盛和夫氏(当時)に、「お前が歩いた後には、ペンペン草も生えない」とまで言われたほど、苛烈な営業マンとなる男である。

岸良氏の手にかかれば、シェア・ゼロの客先が、たちまちの内にシェア・100%になってしまう。「どうしてもナンバー・ワンになるんだ」と遮二無二なっていた彼は、「相手をラリアットでブッ潰すように」、競合他社から仕事を奪い続けていた。

なるほど、稲盛社長(当時)が彼に「ペンペン草も生えない」と言ったのは、何も褒め言葉とばかりではなかったのだ。他の上司も同様、岸良氏の抜群の営業成績は認めはするものの、彼のやり方を快く思わぬところも大であり、「お前もいい加減、大人になれ」と説教するのが常であった。



そうした上司たちの説教に、岸良氏は常に反発していた。それもそのはず、彼が一念発起したキッカケは、先輩たちの不甲斐なさにあったのだ。

ある先輩はこう言った。「京セラは所詮、他の企業に言われたモノを作っている『請負会社』だ。『うけおい』って漢字で書いてみろ。『請けて負ける』って書くだろ。最初から負けているんだよ、ウチの会社は」

当時の京セラはまだまだ弱小。それでも、新入社員だった岸良氏は「希望に燃えていた」。ところが、その矢先にこの先輩の冷水である。「自分だけは、絶対こういう先輩にはなるものか」、この想いが彼をして、宴会男から伝説の営業マンへと変貌させたのであった。



◎啓蒙の書


しかし、連勝街道を突き進む岸良氏にも、「何かがおかしい」と思う気持ちが心のどこかに引っかかり続けていた。そんな悶々の中にいた彼に、ある同僚が一冊の本を手渡す。その本は「大学と小学」、安岡正篤氏の名著であった。

岸良氏にとって、「安岡正篤」という名は聞いたこともない名前だったが、いざ読んでみると、「背筋が伸びてくる」。「稲盛社長がいつも言っている『人間学』というのは、こういうことか…」。この書を読んで痛感したのは、「自分がいかに己を修められていないか」ということであったという。





目の覚めた岸良氏は、次々と修養書を読んでいく。そしてある時、イスラエルの物理学者・ゴールドラット博士の「ザ・ゴール」と出会う。そして、この書が彼を「一変」させた。

「ザ・ゴール」に書かれていたことを一言でいえば、「仕事は一人ではできない」ということであった。

より詳しく述べれば、「一人一人の能力にはバラツキがある。その中で一番弱い部分『ボトル・ネック』を見つけ出し、皆が助け合って仕事をするようになれば、その人本来の能力が発揮されるようになるばかりか、全体の効率や生産性が最適化される(全体最適)」ということだった。

それを日本風に言えば、「和をもって、貴しとなす」という精神となろう。





◎豹変、転身



それまでは「ラリアット」で相手を薙ぎ倒し、歩いた後には「ペンペン草」も生えなかった彼が、突然「みんなで助け合おう」などと言い出したのだから、その豹変ぶりには周囲もたいそう困惑したことであろう。

しかし、その成果は目に見えて顕著であった。一匹狼だったころに比べ、「ケタ外れ」に成績が飛躍していったのだ。そして、グループ社員6万人の大企業の課長へ…。

そんな絶好調の岸良氏に、社員200人足らずの中小企業からヘッドハンティングが…。「断ってくる」と妻に告げて家を出た岸良氏であったが、赤字に苦しむ経営者の姿を前にして「心がグラついた」。そして、家に帰る頃には、京セラを辞める決心がついていた。



岸良氏の新たなチャレンジは、「公共事業」であった。その成果は、2006年に仕上げた「『三方良し』の公共事業改革」という論文に結実している。「三方」とは、「売り手・買い手・社会全体」のことであり、当事者間だけではなく、「社会全体を良くする商取引でなければならない」という、かつての近江商人の心意気でもあった。





◎「世界を変えるのは、お前だ」


この名論文を目にしたのが、イスラエルのゴールドラット博士。岸良氏を開眼させた書「ザ・ゴール」の著者その人であった。来日したゴールドラット博士は、岸良氏を都内のホテルに呼び出すと、矢継ぎ早に質問を浴びせかけた後、最後にこう言った。「世界を変えるのは、お前だ」と。

こうして、岸良氏はゴールドラット・コンサルティングの日本代表となり、フランス、ロシア、インド、オーストリア、イスラエル、コロンビア、ブラジル、韓国…、と世界を飛び回る。かの名論文も今や英語、中国語、韓国語などに翻訳されて、海外の書店に並ぶまでに。



「寝ている以外はずっとハイテンション。まるで電気じかけみたい」、岸良氏の妻は、彼をこう評する。そんな岸良氏は、自らの才能に驕ることとは縁遠いようで、自己評価の真っ先に「運」を挙げる。

「この時代に、僕はたまたま生きていた」という岸良氏の言葉には、京セラの元社長・稲盛和夫氏の姿が思い浮かばずにいられない。



◎「才能を私物化しない」


稲盛氏の名言の一つに、「才能を私物化しない」というものがある。

彼はこう問いかける。「京セラやKDDIを立派な会社にして、JALの再建も果たして、確かに私には少しは経営の才能というものがあったのでしょう。しかし、そういう才能を私が持っている必要はあったのか?」

そして、この問いに自らがこう答える。「現代において、京セラやKDDIを創る人は必要だったかもしれない。しかし、その才能は別に私が持っている必要はなかった。同じような才能を与えられた人がいれば、たとえばJALの再建はその人物を中心に行われたと思うのです」



誰もが不可能と思っていた巨大組織・JAL(日本航空)の「再建」。それをわずか一年で成し遂げたのが稲盛和夫氏である。

この大仕事を前に、多くの人々は「絶対に無理」、「晩節を汚すことになる」と猛反対だった。ところが、結果はといえば、晩節を汚すどころか、それをより華々しいものとした。無給で指揮を執り続けた稲盛氏は、たった2年で2000億円を超える売り上げを出し、3年目の今期にも1500億円の目標に向かって突き進んでいるのである。

それでも稲盛氏は驕(おご)らない。「『俺がやった』などと自惚(うぬぼ)れてはならない。私はたまたまこの才能を与えられ、それを使う役割を与えられただけなのです」





◎お陰様


稲盛氏がそこまで謙虚であるのは、彼の生きてきた道がそうさせずにはいられなかったからだという。

小学生の頃は内弁慶で泣き虫だったという稲盛氏は、結核などの不幸によって中学校の受験に2度も失敗する。「小学校でもう終えようと思った」と言うほど彼は諦めていたというが、たまたま良き恩師のお陰で、中学、高校、さらには大学にまで駒を進めることになる。

「もし、あの先生がいらっしゃらなかったら、私はおそらく小学校を出て、鹿児島(生まれ故郷)で働いていたでしょう」



しかし、社会に出た稲盛氏も、依然として恵まれなかった。給料は遅配、同期は次々と辞め…。ついには彼自身も会社を辞める決断を下し、自衛隊への入隊を決めかけていた。ところが、それを兄は許さなかった。自衛隊の入隊手続きに必要な戸籍抄本を、兄は頑として彼に送らなかったのだ。

稲盛氏の兄は、とことん弟想いであり、稲盛氏が就職する時には安い給料の中から背広を作ってくれている。子供の頃からの「自慢の兄」は、一生懸命に弟の面倒を見てきたのであり、それゆえ、弟の軽はずみとも思える行動に我慢がならなかったのだという。

兄のお陰で、「心のありよう」が変わったという稲盛氏。いままでの人生を不幸と思っていた自分を捨て、一心不乱に研究に没頭することとなる。もはや彼には「逃げ場」がなくなっていたのだ。

そしてそれは、京セラ、KDDI、JALへと続く栄光の道のスタート地点ともなった。



◎業(ごう)


「災難」。30年ほど前の出来事を稲盛氏は語り始めた。謂われのない誹謗中傷を受け、自棄(やけ)を起こしそうになっていた彼は、仏道へと救いを求めることとなる。

西方擔雪(にしかた・たんせつ)という老師は、稲盛氏の悩みに簡潔に答えを出す。「それは『生きている証拠』ですよ」。人間、災難に遭うのは仕方がない。そして、その災難は今までの自分がつくってきた「業(ごう)」の顕れなのだ、と。

そして、希望はそこにあった。「災難が顕れたということは、過去の業が一つ消えたということです」。さらに老師は続ける。「稲盛さん、その程度の誹謗中傷で済んで良かったですな。お祝いしないといけませんよ。中には、肢体不自由になるような災難も遭う人もいるのですから…」



「思念は業(ごう)をつくる」。これは後の稲盛氏の信念である。彼の言う「業」とは、物事の原因となることのことで、その業は自分の抱く思いから生じることになる。つまり、「良いことを思えば、良い原因をつくるし、その反対に、悪いことを思えば、悪い原因をつくる」というのである。

そのためには、「心」のありかたが大切になってくる。



◎心


「心を高めれば、経営は伸びる」とする稲盛氏の信念は、そこから生まれている。

「確かに、経営のテクニックというものもあるんです。でも、それは武道などでいう『心技体』のうちの『技や体』のようなものであり、『心』の下にくるものです。とにかく『心』が8割以上を占めるのです」



冒頭で登場していただいた岸良氏は、同じ京セラの一員だったこともあり、こうした稲盛氏の教えに感じ入り、稲盛氏の著書も熱心に読んだという。だが同時に、「稲盛さんのようになるためには、稲盛さんの本を読んでいるだけではダメなんだ」とも思ったという。

しかし、巨人・稲盛氏は遠い存在であり続けた。稲盛氏は「私にもできるのだから、みんなにもできる」と言うけれど、「稲盛さんのような『凄い人』になれるとは、到底思えなかった」と若き岸良氏は思わずにいられなかった。



◎何かの理由


ある時、ふと岸良氏は「稲盛氏のような偉大な人が存在しているからには、必ず『何かの理由』があるはずだ」と思い至る。

それ以来、岸良氏は「あの人だからできる」という考え方を止めることした。「あの人だからできるんだ」と諦めたところで、自分の学びは止まってしまうように思えたからだった。



稲盛氏自身も「自分だからできるんだ」とは、露ほども思っていない。彼は、この社会を一つの演劇を演ずる「劇場」だという。主役もいれば脇役もいる。大道具もいれば小道具もいる。じつに様々な役回りが存在する。

そして、自分の演ずる役回りは、たまたま与えられたものに過ぎず、それは誰にでも演じられるものである、と言うのである。



自分がそこに存在する「何かの理由」とは?

演劇であれば、あらゆる役回りの人々が、自分の役を忠実にこなさなければ成り立ち得ない。

ところが、昨今の競争社会にあっては、「社会の役に立つ人間は、スキルがあって、スピードが速くて、コミュニケーション能力がある」といった、画一的な役柄ばかりの人々がありがたがられている。

その結果、たとえば障碍者などは、社会のボトル・ネック(弱い部分)として隅へ隅へと追いやられてしまう。当然、彼らにも「然るべき役割」があり、「何かの理由」があるというのに…。



◎ボトル・ネック


京セラで猪突猛進していた頃の岸良氏は、「スキルがあり、スピードが速く、コミュニケーション能力がある」という、いわゆる社会的強者であった。しかし、彼を飛躍させたキッカケは、ボトル・ネック(弱い部分)に目を向けたことであり、それは「ザ・ゴール」の教えでもあった。

ここに「日本でいちばん大切にしたい会社」という本があるが、この本の著者・坂本光司氏は、その選定の条件の一つに、「弱き人々」を雇い、その人たちの幸せを願っている、ということを挙げている。





「まだ大多数の企業が、業績や規模やシェア、株価を基軸にしている」と坂本氏は言う。しかし、彼は「そんなものはどうでもいい」と切って捨てる。

当然、大多数の人々は坂本氏に反論する。「そんな綺麗事だけで、経営ができるものか」と。しかし、彼が訪問した7000社を超える企業のうち、「どんな不況下にあっても、堅調な経営を続けている企業」というのは、一様に「弱き人々」の味方であるという。



◎弱いものを助けたがる人間


「人間は面白いもので、みんな自然と弱い人をフォローするんです。たとえば、障碍のある子がクラスにいると、みんな助けてやろうとします。車椅子の子が登校してきたら、みんなで担いで階段を登ってね。それが楽しいんです」と坂本氏。

「もともと、社会は『違う人たち』が寄り集まってできています。ところが現代社会は、『社会に役に立つ人間は、スキル・スピード・コミュニケーション能力がある人間』と誰かが勝手に線引きしてしまっているのです」

その結果として、争いは生じ、少しでも他人の前に出ようと躍起になる。強い者を出し抜き、弱い者を蹴落として…。しかし、そうして得た勝ちは永続することが少ない。ただ、「奢(おご)れる者も久しからず」の悪循環の中で、「ついには滅びる」ことになるのである。日本が源平の争乱から学んだように…。



本当の「強き者」とは?

自分の強さを自覚しているのであれば、もはや勝つ必要は薄れてしまう。むしろ、強いのならば、弱い人々が耐えられないような苦難にも耐えることができるはずであり、自らがその苦境にあっても、弱き人々に手を貸すことさえ出来るはずである。

「5人家族で、3杯しかメシがない時に我慢するのは『親』なのです。『私たちは先に食べてお腹いっぱいだから』と言って。そして、自分たちは子供の見ていないところで、水で腹を満たすのです」

もし、強いからといって、弱き人々のメシを真っ先に奪う者がいたとすれば、それを強き者というのであろうか?



◎厳しい現実の中でさえ…


ところが一転、厳しい競争社会は様相を異にする。

同僚がリストラされた時、「俺じゃなくて良かった…」と胸をなで下ろす。「自分の給料を下げてでも仲間を守って下さい!」と言う人はいるのだろうか。

きっと、若き岸良氏は、こうした矛盾に「悶々」を感じていたのだろう。長き苦悶の末、彼は一転、弱き人々の味方になったのだ。そして、ゴールドラット博士から「世界を変えるのは、お前だ」と言われ、今や世界中の悩める経営者たちの救いの神となったのだ。



岸良氏の尊敬してやまない稲盛氏は、誰もが腰の引けていたJAL(日本航空)の再建を引き受けた。

「倒産したJALを救うことは、3万2,000人の従業員を救うことだと思い、不可能かもしれないが、必死に頑張ってみようと、迷った末に引き受けました。もし、この世に神様がいるのだとしたら、その必死さをかわいそうに思い、手伝って下さったんじゃないかと思います」

偉業を成し遂げた稲盛氏は、まるで他人事のように淡々と語る。「自分でも驚くほどうまくいきました」



「心を高める。経営を伸ばす」というのは、稲盛氏の主催する盛和塾の一貫したテーマである。

「自慢のように受け取られるかもしれませんが、今回のJALの再生を通して、これまで掲げてきたことは間違いではなかった、と証明できたと思っています。心を変えれば、不可能も可能になるのです」



◎日本の心


はたして現代社会の「心」はどこを向いているのだろうか?

そしてそれを、どの方角に変えれば、物事は好転し出すのだろうか?



その答えは、岸良・稲盛両氏の足跡が雄弁に物語っている。

そして、それこそが「日本の心」でもあるのだろう。

なんとも頼もしいことではあるまいか。この日本にはまだまだ「大切にしたいもの」が山ほどある。






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出典・参考:
致知9月号・10月号

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