2012年9月3日月曜日

太古の香りを残す「尾瀬」。変わらぬことの大切さ


夏が来れば思い出す。「尾瀬」。

その早朝に見られた尾瀬の虹は、なぜか「白かった」。



◎白い虹


真夏とはいえ、10℃にまで冷え込んだその朝、朝日が射しはじめると、尾瀬ヶ原を覆っていた紅の雲海は静かに消え始めた。そして、空が少しずつ明るくなってくる、まさにその時、その「白い虹」は姿を現した。

大地と天空をつなぐ「白いアーチ」。

その神秘的な姿は、ほんの数分もすると、ふたたび尾瀬ヶ原の湿原に帰っていった。まるで「夏の幻」のように…。






なぜ、その虹が白く見えたのかと言えば、それは尾瀬の湿原に立ち込めていた「霧」のイタズラだった。

普通の七色の虹は「雨粒」の中に太陽の光が入り、その光が七色に分かれることによって七色に見える。一方、尾瀬の白い虹は、雨粒よりも100分の1も小さい「霧粒(0.02mm)」が虹の元になっている。

粒が100分の1ということは、7つの色に分かれる光も「100分の1」。その光はあまりにも微細すぎて、人間の目には「白」にしか見えなくなるのである。



◎尾瀬の地塘(ちとう)


白い虹を生み出す「霧」をもたらすのは、尾瀬の湿原に1800以上も点在する池や沼。それらの池や沼は、ここでは「地塘(ちとう)」と呼ばれている。

これらの地塘(ちとう)は、湿原を流れる川よりも高い位置にあるために、川の水が流れ込んで出来たものではない。地塘の水源は、天から降ってくる雨や雪だけなのである。それでも不思議なことに、どんなに日照りが続いても地塘の水が枯れることはない。



地塘から立ち昇る霧は、天からもたらされた水が、再びゆっくりと空へ帰ろうとしている途上である。その急がぬ帰り道、霧は辺りの植物たちに十分な潤いを与えたり、時には白い虹をつくったり…。

天に帰った霧たちは、いつの日か再び雨や雪に姿を変えて、湿原の地塘へと戻ってくる。こうした悠大な水の循環を支えているのが、尾瀬の地塘なのである。





◎雪の冬


標高1400m以上に位置する尾瀬の「秋」は短い。まるで駆け足のように通り過ぎてゆく。ヒツジグサの葉が赤く染まったかと思えば、あっという間に雪が降り始める。まだ10月だというのに…。

しんしんと尾瀬の地塘(ちとう)に降り積もる雪。その長い冬はおよそ一年の半分(11月~翌5月)。時に、積雪は4mを超え、凍てつく気温はマイナス30℃にまで迫る。



そんな厳冬期の尾瀬に、静かに分け入る野原精一博士(国立環境研究所)。深い深い雪をザクザクと下へ下へと掘り始めた。ほかの科学者たちとも協力しながら、およそ2時間をかけて、ようやく真っ白な雪以外のものが見えはじめた。

「氷?」「いや、これは水面だ。雪と水の混ざった『スノー・ジャム』だ」



◎暖かい雪の布団


なんと、深い深い雪の下に閉ざされた地塘の水は凍ってはいなかった。むしろ、寒風吹き荒ぶ地表よりもよっぽど温かく、カサスゲや水芭蕉の芽まで青々としているではないか。

「あっ! 虫だ、虫。いっぱいいるわ」。分厚い積雪と地塘の間のスノー・ジャムの中には、ガガンボの幼虫までがウジャウジャと蠢(うごめ)いていた。



尾瀬に降る雪は、日本海のもたらす強い寒気の影響で、フワフワと軽いパウダー・スノー。その羽毛のような雪の結晶は、地に降りても溶けることがない。そのフワフワと降り積もった雪の結晶は、たくさんの空気を閉じこめたまま、何メートルも高さを増していくのである。

いわば、それは雪の「羽毛ブトン」。それが尾瀬の生物たちを寒風から守っていたのである。

調べてみると、冬の命を育むスノー・ジャムは、50cm近い厚さがあった。これは野原博士が予想したよりもずっと分厚い層だった。言うなれば、深さ50cm程度の大きな湖が、雪の下に横たわっていたのである。多くの生命を守りながら…。



◎謎のアカシボ


長い冬もいつかは終わりを迎える。遅いとはいえ、必ず春は来る。5月になった尾瀬は、ようやくその時を迎えようとしていた。

この時、尾瀬の真っ白い雪は、なぜか「赤く」染まっていた。これは、「アカシボ(赤渋)」と呼ばれるものであり、雪解けの尾瀬にほんの数日間だけ見られる謎の現象である。

この奇妙な赤は、鉄がサビた色である。しかしなぜ、雪の中の鉄がこれほど大量に酸化してサビとなるのか? 科学者たちの長年の謎であった。





アカシボの発生する数週間前、深い積雪を調べてみると、雪の下150cmほどのところまで、サビが上がってきていた。そして、そのサビを採取して顕微鏡で覗いてみると…、ミジンコやアカシボの幼虫のお腹の中にも赤いものが…。

どうやら、アカシボは鉄のサビ(酸化鉄)ばかりではないようだ。生物の栄養分も含まれているようである。尾瀬の深い雪は生物を寒さから守るのみならず、エサまで与えていたのか…。



さらに詳しく、遺伝子レベルまで解析を進めていくと、そこに現れたのは数十種類にも及ぶバクテリアや微生物たち。なるほど、彼らが鉄などを分解して、小さな生き物たちにエサを与えていたらしい。

アカシボを調べて17年という福井学教授(北海道大学・低温科学研究所)は、それら無数のバクテリアの中でも、「ジオバクター」とよばれるバクテリアに釘付けとなった。

ジオバクターとは、深海などの空気(酸素)がない環境でも生育できる原始的なバクテリアである。ジオバクターは酸素の代わりに鉄を使って呼吸を行っているのである。



◎ジオバクター


ジオバクターは酸素がなくても生きられるというよりも、むしろ酸素が大の苦手であった。というのも、彼らが大活躍したのは「太古の地球」。その頃には、地球上に酸素などというものは存在していなかったのだ。

地球上に酸素が満ちるようになって以来、ジオバクターたちは日の目を避けるかのように、暗いところ暗いところ、酸素のないところ酸素のないところへとその身を潜ませていった。

そして、それは光の届かない深海であり、酸素の薄い尾瀬の地塘の中であった。



ジオバクターの好む環境は、酸素を必要とする生物たちにとっては、過酷な環境ばかりである。なにせ十分な酸素がない。しかし、ジオバクターが酸素以外のものから栄養分をつくってくれるお陰で、様々な生物が生きていけるようにもなる。

光の届かない真っ暗闇の中で暮らすエビやカニは、モヤシように真っ白であるが、ジオバクターなど原始的な生物が生み出す栄養分のおかげで、なんとか生きていくことができている。

尾瀬の地塘は、その底が泥炭であるために水中の酸素は極めて少ない。それに加えて、一年の半分以上は雪に閉ざされるために、光すら十分に届かない。その環境は、まるで深海のようではないか。

ジオバクターにとって不要なもの(酸素や排泄物)は、酸素を必要とする生物にとっては有用なものである。この真逆の関係が、酸素の少ない世界において生態系の奇妙なバランスを演出するのである。





◎閑話休題


ちなみに、ジオバクターは人間にとっても有益である。なぜなら、彼らは「発電」をすることもできれば、「放射能」を固定することもできるのだ。

ジオバクターが科学的に行っているのは「電子」の受け渡し。相手の電子を奪うことで、生きるためのエネルギーを得ているのである。ジオバクターが鉄の電子を奪えば、鉄は錆びるし、放射性物質であるウランの電子を奪えば、そのウランは水に溶けなくなって無毒化する。そして、その電子のやりとりが発電にもつながっているのである(世界最高出力は1立方mあたり2kW。米海軍が実用化)。

なんと、太古の原始的な生物が、酸素生物の最高峰にある人間にできないことをアッサリとやっている。人間が必要とするものをサッパリ必要としないジオバクターは、人間がノドから手の出るほどに欲するものを吐いて捨てているのである。



◎水芭蕉


アカシボの赤が尾瀬から消えた後、それと入れ替わるように湿原に現れるのは「水芭蕉(ミズバショウ)」。雪の布団の下で芽を出していた、あの水芭蕉である。

尾瀬に白く咲き誇る水芭蕉の大群落。待ち焦がれた春の到来を高らかに宣言する尾瀬の風物詩である。



ところが意外なことに、日本でも有数の大群落を形成する尾瀬の地塘(ちとう)は、本来、水芭蕉の住めない環境である。なぜなら、地塘の水には水芭蕉が求めるほどの酸素が含まれていないからだ。

そのため、酸素を求めて伸びる水芭蕉の根っこは、いったん下へ下へと伸びていくものの、地塘の底の泥炭に酸素がないのを知るや一転、180°向きを変えて、上へ上へと浮上する。結局、根っこは空気中からしか酸素を得られないのである。





◎泥炭


なぜ、地塘の底に酸素がないのか? それは尾瀬があまりにも寒いため、植物の残骸などが腐らずに、そのまま積み重なっているだけだからである。尾瀬の年間平均気温は4℃、これはまさに冷蔵庫の温度であり、そうそう植物の腐る温度ではない。

本来、枯れた植物が土中の微生物に分解されることによって、その土は酸素や栄養分、つまり豊かさを増してゆく。ところが、冷蔵保存されているような尾瀬の土では、植物の遺体の分解は極めて遅く、それよりも早く次の遺体が重なりあってしまうのである。

こうして出来るのは「泥炭」。この泥炭の中には、栄養もなければ、酸素もない。植物にとっては、大変「生きにくい土」なのである。



◎燧ヶ岳の大噴火


ではなぜ、そこまでして水芭蕉は、尾瀬に咲きたがるのか? その答えに行き着くためには、少々地球の歴史をさかのぼる必要がある。

今からおよそ40万年前、尾瀬に湿原はなかった。そこにあるのは高い峰々に挟まれた、単なる谷間であった。その状況が一変するのが、燧ヶ岳(ひうちがたけ)の登場である。

現在、尾瀬の燧ヶ岳は北日本随一の高峰である(標高2356m)が、その登場はおよそ5万年前、時の大噴火により、その頂を天に伸ばした。そして、その時流れ出た膨大な量の溶岩が、尾瀬の谷間を塞ぎ、湿原の元となる広大な盆地を山中に現出させたのである。

現在の尾瀬は、東京ドーム170個分という広大さであり、これほど天に近く巨大な湿原は他に例をみない。



◎氷河期と温暖化


当時の地球は「氷河期」。ただでさえ寒い尾瀬は、もはや極寒。生物の生きられる環境ではなかった。当然、水芭蕉はまだここにない。その頃の水芭蕉が根を張っていたのは、ほど良い寒さであった関東平野のあたりだと考えられている。

時は大きく移り、氷河期という大きな冬が終わる時がきた。地球温暖化の始まりである。

分厚い氷が溶け始めると、日本列島と朝鮮半島をつないでいた氷にも隙間ができ始め、その隙間を勢いよく海流が流れ出した。これが現在の対馬海流。この暖かな海流が日本海に流れ込むことにより、日本列島の気候は一変した。



暑さを増す関東平野、もはや水芭蕉が快適に暮らせる温度ではない。北へ北へと逃れた水芭蕉は、ついには新天地・尾瀬にたどり着く。

しかし、気温が心地よいとはいえ、尾瀬の土壌は、先に述べたように、泥炭という酸素も栄養も乏しい「生きにくい土」。それでも、尾瀬にこだっわった水芭蕉の心境たるや如何なるものか。地中における自らの姿を変え、根を空中に突き出すという奇妙な方法で、尾瀬に生きる道を選んだのだ。

なんと、弱くも強い花であろうか、水芭蕉という花は。



◎か細いバランス


水芭蕉が花咲く頃、スノー・ジャムの中をともに生き抜いた同志、ガガンボの幼虫も土から顔を出す。しかし、顔を出した途端に、小鳥たちに突っつかれるのも悲しい宿命だ。冬を越えたガガンボの命は、小鳥たちのヒナの貴重な栄養ともなってしまうのだ。

もちろん、無事羽化するガガンボも数多い。ガガンボというのは一見「大きな蚊」のようにも見えるが、その実、人を刺したりすることはなく、おおよそ無害な弱い虫の一匹に過ぎない。



そんな儚い命でも、もしそれが欠ければ、尾瀬は尾瀬でいられなくなるかもしれない。太古からあまり姿を変えていないという尾瀬の湿原は、それほど”か細い”弱々しいバランスの上に現出しているのである。

真冬の尾瀬を雪掘った野原教授は語る、「数十万年という時間を経ながら、いくつもの偶然が重なり合い、尾瀬は今ここにあります。もし、もっとたくさん水があれば、尾瀬は『湖』になっていたでしょうし、逆に水が枯れてしまっていたら、ここは草原となり、いずれは『森林』となっていたでしょう」



確かに、尾瀬が尾瀬である理由は、それが湿原という水と山の「中間的な状態」を保持しているからである。たいていは、一つの極である「湖か沼」、もしくは「山」になってしまうのであり、それが尾瀬ほどの高層(標高1400m以上)に、尾瀬ほどの広大な湿原が存在しない理由でもある。

「ここでしか生きられないもの、ここだからこそ生きることができるもの。そうした生命の連なりが、尾瀬を生み出したのです」



◎遅々とした変化


尾瀬が湿原のままに保持されたのは、その低温が大地を肥えさせなかったためであり、その水の循環が川という流れの速いものではなく、水を容易に流さぬ地塘と、そこから発生する霧という、じつに遅々としたものだったからでもある。

低温に閉ざされた流れの鈍い尾瀬という空間は、幸か不幸か、太古の香りをそのままに残す結果となった。その地中に太古のバクテリア・ジオバクターが安住していられるのも、その変化の少なさの賜(たまもの)であろう。

尾瀬に居着いた生物は、なかなかにこの地を去らない。尾瀬に住む植物は300種類以上、日本の湿原植物の大半がここに住み、なかには、尾瀬でしか見られない珍しい植物も数多い。



普通に考えれば、土地は肥えていたほうが良いであろうし、土中には酸素が多い方が良いであろう。

ところが、その豊かさを裏返せば、それは「変化の速さ」となる。土地の変化が早ければ、畑には草がはびこり、それはやがて木となり森となる。そして、ついには山と化すのである。それが植物相の自然な進化である。

もし人間が食料を生産したいのであれば、畑は畑のままに進化を止めてもらわねば困る。森や山となってしまっては、いつまでも麦や米が育てられない。とどのつまり、モノには「程(ほど)」があるのであり、「ほど良い」ところが必ずあるのである。



この「程(ほど)」を知らぬのが、西欧の進歩史観という哲学で、「文明は進めば進むほど良い」と考える。地球には限界がないと考える彼らは、変化を促進することばかりを好み、その結果、地球上の資源は枯渇しつつある。

しかし、森や山でさえ「極まれば変わる」。そして、その変化に対して最も脆弱なのは、知恵に頼りすぎた人間であることを忘れてはならない。



◎人間の足音


静かな静かな時を、ゆっくりゆっくり過ごしてきた尾瀬。尾瀬に関する歴史的記述の少なさが、その静けさを物語っている。

しかし、その静かな尾瀬にも、少しずつ人間の足音が聞こえ始める。



尾瀬の最高峰、燧ヶ岳(ひうちがたけ)に最初に登頂したのは、「平野長蔵(ひらの・ちょうぞう)」氏。福島県に生まれた彼は、明治22年(1889)、19歳の時に燧ヶ岳の頂に立った。この年が、燧ヶ岳の開山となり、翌年、尾瀬に小屋を設置した長蔵氏は、その年(1890)をもって「尾瀬の開山」とした。

その後、尾瀬の美しさに魅了された長蔵氏は、尾瀬沼のすぐそばに丸太小屋を建てて住み着き、これが後の「長蔵小屋」の始まりとなった(1910)。



この辺りまでは、人間の足音も微々たるものだった。ところが、この後、大企業の大きな足音が、尾瀬の静けさを打ち破る。

1922年、関東水電(現在の東京電力)が尾瀬の水利権を獲得し、「ダム(尾瀬原ダム)」の建設を計画。1944年、取水工事が開始され、水力発電用の水を通すトンネルが完成した。



◎直訴


これに腹を立てた長蔵氏。すぐさま上京して、大臣宛ての請願書を提出。しかし、この訴状は軽く握り潰される。

それでも諦めない長蔵氏。「悠大な原始のおもかげを残す尾瀬の自然」を守ることを彼は世に訴え続けた。彼の尊敬する人物は「田中正造」、不正を憎み、権威を恐れず、己の信念を貫き、足尾銅山の鉱毒事件を追求した人物である。



長蔵氏の訴状は握り潰されたものの、その大声は社会を動かした。1934年、尾瀬は「日光国立公園」に指定され、1960年には「特別天然記念物」にも指定された。

この頃、長蔵氏はすでに世になく、その代わりに息子の長英氏、孫の長靖氏が、自然保護活動を継続していた。尾瀬が特別天然記念物に指定されたことで、事実上、発電所計画は不可能となっていたが、それでも東京電力はその計画を堅持し、ようやく断念するのは1996年にもなってからのことである。

現在、尾瀬の地は厳しく管理され、木道以外の場所を歩くことも許されなければ、おいそれと研究することさえも禁じられている。





◎無言の問い


もし、あの時、長蔵氏が声を大にしなかったら…、5万年前に燧ヶ岳が作り上げた天然の盆地は、人為によるダムと化していたかもしれない。そして、尾瀬に眠っていた太古の香りには、気づくこともなかったかもしれない…。

どうも人間というのは、人一倍「変化に弱い」くせに、人一倍「変化を好んで」仕方のないようだ。そんな人間たちに、何万年と静けさを保っている尾瀬は、「無言の問い」を投げかける。



その問いを言葉に表したような書が「世界史の中の縄文文化(安田喜憲)」。

この書において、安田氏は語る。「これまでは、縄文人は未開な人種だったから『一万年も同じ生活を繰り返している』と考えられていた。しかし、そうではない。人間は自ずと進歩発展への道をたどっていくものである。それにも関わらず、縄文人はその『本能を押さえて』同じ生活を営々と繰り返してきたのである。そして、それが日本人の根幹を形成していると考える」

詳細は省くが、安田氏のこの言葉は心に残る。「縄文時代は、人と人が集団で殺し合いをした形跡が一切ない。また、発掘される土偶は100%妊婦であることから、生命が非常に大切にされていたことが分かる。今わかっていることの一つは、縄文文化が『生命を慈しむ文化』であったということである」





◎夏の幻


この一万年間で、地球の人口はおよそ1000倍に膨れ上がり、一人当たりが使うエネルギーは100倍にも増加しているという。

かたや、静かなる尾瀬では、息も絶え絶えの酸素の中、カツカツの栄養分で多くの生命が花開いている。そしてその営みは、一万年と言わず、何万年となく営々と繰り返されてきているのである。



湖にも山にもならなかった尾瀬。

一方、進歩発展を願ってやまない人間たちは、いつの日か湖も山も変えてしまうのかもしれない…。



夏が来れば思い出すはずの尾瀬。

夏の幻のような「白い虹」とともに消えてゆかぬことを…。






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出典・参考:
NHKスペシャル 「奇跡の湿原・尾瀬」

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