2012年9月3日月曜日

「常に不満足であれ」。世界最高峰のパン職人


飛騨の田舎に、「不機嫌なパン職人」がいる。

眉間にシワを寄せ続けるその顔は、怒っているかのようにも見える。



彼は「不満」なのである。

何に不満なのかと言えば、自分の作った「パンの出来」に不満なのである。




彼のパンづくりの技術は、それほどに拙(つたな)いのか?

いやいや、そんなことはあるはずがない。

なぜなら、彼は「世界」でも認められた一流のパン職人なのだ。



彼の名は「成瀬正(51)」。

2005年の世界大会「クープ・デュ・モンド」で日本代表に選ばれ、団体で「世界3位」という輝かしい成績を収めた。

彼はその時のチームリーダーであった。

※クープ・デュ・モンド(Coupe Du Monde)とは、パン職人のワールドカップのようなものであり、3年に一度、フランス(リヨン)で開催される。





世界12ヶ国の代表たちが3人一組となって、規定の時間内(8時間)に、限られた材料でバゲットやクロワッサンなどの腕を競う。

成績下位半分(6ヶ国)は次回の出場権を失うが、日本は1994年の初出場以来、毎回出場を果たし続けており、2002年には栄えある初優勝の栄冠にも輝いている。




成瀬氏の出場した2005年大会は、いろいろな意味で「苦難の年」であった。

というのも、日本チームは前回大会で優勝していたために、世界の目は日本に大きく期待する一方で、その目は厳しさを増していた。



さらに、数々のトラブルが日本チームを次々襲う。

粉の指定が直前で変更されたために、その再調整にギリギリまで時間が取られた。そして、大会当日は機械のトラブルに見舞われ、その生地が使えなくなってしまう。

それほど逼迫した条件の中ですら、日本チームは大健闘した。「今までで最も困難な苦境」とまで言われた大会で、世界第3位になったのだから。



その時の写真を見ると、成瀬氏の顔は微笑んでいるように見えて、どこか「不満」そうだ。

きっと、世界に認められてなお、その出来には満足いっていなかったのかもしれない。




なにしろ、「常に、不満足であれ」

これこそが彼の信条なのである。



職人としての「飽くなき追求」。ただただ「自分の腕を磨き続ける」。

その信条の元では、たとえ世界に賞賛されたとしても、不機嫌な表情をそう簡単に崩すわけにはいかないのだ。

「満足したら、そこで終わってしまう。」



成瀬氏の家は、「学校給食用」のパンを作るパン屋さんであった。

幼き頃よりパンに親しみ、父親の働く後ろ姿を見ていた成瀬であったが、「パン職人だけにはなるまい」と心に決めていたそうである。



しかし、周囲の状況がそれを彼に許さなかった。

父親がガンで倒れるや、パン工場には億単位の借金ばかりが残され、岩にかじりついてでもその立て直しを図らなければならない状況に追い込まれたのだ。



新しいパン屋の船出は好調であった。

連日多くの客で賑わう店内は、今後の先行きの明るさを示していた。

ところが、その盛況ぶりは4日と続かなかった。4日目には早くも客足が遠のき、すっかり泥沼にはまり込んでしまった。



連日売れ残るパン…。

それでも、成瀬氏には「やめる」という選択肢は許されていなかった。



やはり、売れないパン…。

成瀬氏は、こんなことも考えた。「もし、この店が都会にあったのなら…。」

田舎には高級で良質なパンを喜んでくれる客層が乏しい。もし、都会であれば、もっとパンが売れるのではないか? いっそのこと、田舎を離れるべきなのか?

こうした悶々とした日々は、3年以上も続いたのだという。



泥沼にもがく成瀬の心を一変させたのは、あるパン職人との出会いであった。

フランスの片田舎で、黙々とパンを焼き続けるパン職人「ジョセフ・ドルフェール」との出会いである。



成瀬氏は彼のパンを口にするや言葉を失う。

それほど、とんでもない出来栄えであったのだ。

ここはパリから車で5時間もかかる田舎町。そんな田舎町で、まさかこれほどのパンに出くわすとは…。



それもそのはず、ドルフェール氏はパン大国のフランスがお墨付きを与えたパン職人。「フランス国家最優秀職人(MOF:Meilleurs Ouvriers de France)」である。

それほどの人物が、ただただ田舎の人々の口を満足させるためだけに、喜んでパンを焼き続けている。

この田舎町はドルフェール氏の生まれた土地であったのだ。





成瀬氏は想う。

「この町の人々の、なんと幸せなことか。

こんな田舎にいながらにして、世界最高峰のパンを毎日食べられるのだから。」



同時に、成瀬氏の心は決した。

自分のパン屋も、そう思われるパン屋になろう。

「飛騨高山の人々は、なんと幸せなことか。成瀬のパンが毎日食べられるのだから」、そう思われるパン屋になろう。

この時以来、成瀬氏の心からは都会への夢想は霧消し、ただただ生まれた土地に根をはることだけに専心することになる。



そして現在、飛騨高山の人々は日本中のパン好きに羨(うらや)まれている。

成瀬氏のパン屋は「パン好きの聖地」とまで称えられ、日本全国からこれでもかと客が押し寄せるのだ。

そんなパンを飛騨高山の人々は、居ながらにして楽しむことができる。これこそ、若き成瀬氏が追い求めてやまなかったものである。



「地方にでも、美味しいフランスパンはあるべきでしょうし、美味しいクロワッサンはあるべきでしょう。美味しいパンは、近くで買えれば一番いい。

地方の人に、『フランスパンって、この程度のものなの』と思われてしまうのが、一番まずい。」




世界を知る成瀬氏が理想とするパンは、いまだ彼の手元にない。

日々、焼き上がるパンを見ては首をかしげ、「おかしいな…」「難しいな…」と、理想への試行錯誤はやむ気配がない。

「コネを30秒短くしてみようか」、「あと5分発酵させてみよう」

厨房に立ち続ける10時間、成瀬氏の顔が緩むことは決してない。



そんな彼を慕って、多くの若きパン職人たちが飛騨高山にまで修行にやって来る。

「一番身近なところで、一番美味しいパンが買えること」、それが成瀬氏の願いであるのだから、修行を終えた若者たちが、自分の土地でパン屋を開くのを何よりも歓迎している。

むしろ、それこそが成瀬氏の使命であるかのように。



土屋清明さん(33)は、成瀬氏に惹き寄せられたそんな若者の一人である。

パン未経験でありながらも、店を出したいという強い想いが彼を飛騨高山にまで足を運ばせた。



見ること、やることが全て新鮮な土屋さん。

先輩たちの仕事を、懸命に見て学ぶ。



そんな土屋さんを遠目で見守る成瀬氏。

ある時突然、土屋さんに「クープを入れてみろ」とカミソリを渡す。



「クープ」というのは、バゲットの表面に入れる「切り込み」のことで、バゲットが焼き上がった時には、その切れ目が開き、それが「パンの顔」ともなる。

このクープひとつでパンの表情が決するために、もし、それをしくじれば、それまでの工程が台無しになってしまう。




顔のこわばる土屋さん。

今まで先輩の仕事を見ていたようで、いざ自分がやるとなると、カミソリの持ち方すら思い出せない。

プルプルと入れたクープは、どこか冴えない。それでも、成瀬氏はそのままバゲットを窯に入れた。




焼き上がったバゲットを、土屋さんに差し出す成瀬氏。「違いが分かるか?」

正直、土屋さんにはよく分からない。

結局、土屋さんがクープを入れたバゲットは、店に並べるカゴに入れられることはなかった。




何度か、クープを任される土屋さん。

しかし、決まってそのバゲットは外される。毎日、毎日、バゲットはダメになる。



「昨日のが生かされてねぇよ。全然。」と成瀬氏は依然厳しい。

ただでさえ不機嫌そうな顔は、ますます不機嫌に見える。



と、ある日のこと、焼き上がったバゲットを不機嫌そうに眺めていた成瀬氏は、土屋さんがクープを入れたバゲットを2本、売り物用のカゴに突っ込んだ。

思わず顔がほころぶ土屋さん。初めて自分の仕事が認められ、お客様にお出しすることになったのだ。



嬉しさが込み上げるも、気を許すことは許されない。

「満足しちゃダメなんです」

土屋さんは、辛(かろ)うじて不満足な表情を維持することができた。




「常に不満足であれ」

その心は、土屋さんに伝わりつつあるようだ。



一見不機嫌そうな職人たち。

その不機嫌な表情の裏には、高い志があるのだろう。そして、その高い志は、もっとも身近な人々に向けられたものである。

無愛想ながらも、何と心の暖かい職人たちであろうか。



飛騨高山では今も毎日毎日、世界レベルのパンが次々と焼き上がっている。

成瀬氏のパン屋の名前は「トランブルー(Train Bleu)」。

そのフランス語を英語に直せば「ブルー・トレイン」。そこには、「長い道のりを、目的地に向かってコツコツとひたすら走り続けてゆく」という願いが込められている。



今日の成瀬氏も、焼き上がったパンを睨(にら)んで首をかしげているのかもしれない。

その不機嫌な表情とは裏腹に、彼はパンを焼くのが楽しくてしょうがないのだ。そして、そのパンの表情を伺うのが、嬉しくてしょうがないのだ。



毎日毎日、一度として同じ表情のないパン。

「時間はかかっても」、たとえ「売れなくても」、それでも彼はパンを作り続けるのだろう。

彼の生み出すパンは、そうした地道な下地の上に実った結晶なのである。






出典:プロフェッショナル 仕事の流儀
「不満足こそが、極上を生む パン職人・成瀬正」



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