2012年8月4日土曜日

武士の末裔「柴五郎」の守り抜いた北京


「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめており、ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じている」

時は1900年、場所は中国・北京。義和団と称する反乱軍は、「扶清滅洋(清をたすけ、外国勢を滅ぼす)」の旗を掲げ、世界各国の公使たちを北京城に追い詰めていた。

20万人以上の大軍を眼前にして、北京城に立て籠もるのは、わずか4000人弱。4000とはいえど、そのほとんどが民間人であったため、兵と呼べる数は500にも満たなかった。

ところが、この絶望的に少数の籠城軍は、およそ2ヶ月間にわたり北京城を守り抜いてしまう。そして、その混沌とした北京城内には、その「小男」の姿が確かにあった。




冒頭の記述は、当時の北京城内でその「小男」とともに戦ったイギリスのシンプソン氏の日記からの抜粋である。

その小男とは、日本人「柴五郎」その人。のちに、「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本兵に帰すべきものである」とイギリス公使に言わしめたほどの男である。







◎静かなる小男


世界各国の公使たちの入り乱れていた北京城内は、大軍を前にして混乱の極みに達していた。イギリス、ロシア、フランス、アメリカ、ドイツ、オーストリア、イタリア、オランダ、ベルギー、スペイン、そして日本。これほど多国籍の人々が入り乱れていては、まとまるものもまとまらぬ。

その喧々諤々の席上にあっても、小男・柴五郎ばかりは静かであった。彼は黙って聞くばかり。そして、時折「セ・シ・ボン(結構ですな)」とボソリ。

柴五郎の心は十分に錬られたものであり、小さな東洋人の発言が欧米列強の反発を招くものだということを、十分に心得ていた。しかしそれでも、会議は柴五郎の思い描く方向へと進んでいった。彼がボソリとつぶやくたびに、世界の列席者たちは、その方向へと引かれていったのだ。彼の発言にはそれほどの理があり、彼の落ち着きはいつしか皆の安心となっていた。

まさにシンプソン氏がいうように、「この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめてしまっていた」。そして、その秩序こそが北京城を最後まで一丸とさせた源でもあった。



◎世界が知る男


小男・柴五郎とは何者ぞ?

多少歴史を知る人でも、彼の名を知らぬ人は多い。世界に高く評価されても、日本国内でさほど知られぬ人というのがたまにいるが、柴五郎はまさにその典型。

ひょっとしたら、イギリス人のほうがよく知っているのかもしれない。彼はのちに日英間で結ばれる日英同盟の見えない礎石をも築いているのである(後述)。タイムズ誌は柴五郎を「軍人中の軍人、コロネル・シバ(柴中佐)」と誉め讃えて世界に報じている。



彼の名が日本史の奥に埋もれてしまったのは、明治という国体に原因があった。明治の維新史というのは、時の政権の中枢をになった薩長(鹿児島と山口)を中心として書かれたものであったため、それに敵対した勢力、たとえば会津藩(福島県)などはその埒外に置かれたのである。

不幸にして、柴五郎は明治維新に最後まで楯突いた会津藩の武士の末裔であった。



◎武士中の武士


柴五郎がこの世に生を受けたのは、江戸幕府も命からがらの頃(1854)。そして、明治の新政府軍が会津城下に迫って来た時、柴五郎はわずか10歳の幼い少年であった。

会津の柴家というのは由緒ある家柄であり、柴家の仕える会津藩というのは、日本全国でもとりわけ徳川幕府への忠節心が厚い土地柄であった。それは、初代藩主の保科正之が2代将軍・徳川秀忠の息子であり、3代将軍・徳川家光の弟でもあったことに由来する。

そんなこともあり、幕府に対する会津藩の忠義は、会津武士をもって「武士中の武士」と言わしめるほどに、他の武士たちの鑑にされていたのである。それゆえ、幕府を滅ぼした明治新政府との決戦は不可避なものであった。



まだ10歳だった五郎は戦場に立つことが叶わず、彼は父と4人の兄が戦いにおもむく後ろ姿をただ見送るしかなかった。落胆する五郎の心を喜ばせたのは、叔母と一緒に泊まりがけで山菜採りに出掛けるという話であった。

しかし実は、その山菜採りという話は、柴家を何とか存続させるために、五郎を生かす方便であった。五郎が山菜採りに興じているさなか、母・祖母・姉妹らの女衆たちは自害していたのだ。その自刃は、「女子供が城に身を寄せては足手まといになる」という、武家の女たちらしい悲壮な決断であった。

唯一の救いは、その悲壮な決断が五郎を生かし、のちの世界のお役に立ったということなのかもしれないが…。



◎臥薪嘗胆


奮戦虚しく、会津は敗れた。そして、その領民1万7000は青森県への移封とされた。青森へ向かう長い長い人の群れの中には、柴五郎の姿、そして幸いにも父と兄の姿もあった。

会津藩の所持していた石高は67万石。それに対して移封先の青森・斗南はわずか3万石(その実、7000石)。その小さすぎる石高で大藩・会津の領民を養うのは、まず不可能。それゆえ、移封した会津の領民の生活は極貧にさらされることとなった。極寒の地で…。



のちの柴五郎は、その時の生活をこう記している。「着の身着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥(布団)なく、耕すに鍬(くわ)なく、まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下20度の寒風に蓆(むしろ)を張りて生きながらえし辛酸の日々…」

その過酷な生活により、五郎の髪の毛は抜け落ち、高熱により生死の境をふらつくことも…。そんなある日、食卓に犬の肉がのぼった。それは射殺された野良犬をもらい受け、塩で煮込んだものであった。ところが、弱っていた五郎はそれを吐き戻してしまう。

その五郎を厳しく叱責する父。「己は武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地に来たれるなり。『会津の武士どもの餓死して果てたるよ』と薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり」



会津武士としての誇り、それは薩長により賊軍と貶められても、一向に揺らぐものではなく、いささかも恥じるところのないものであった。

「子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裏に刻まれて消えず」と、のちの柴五郎は記している。



◎浮上する才


海に沈んだコルクの栓は、たとえその真上に大岩が乗せられたとしても、いずれは勢いよく海上へと浮上する。それと同様、柴五郎という有能な人物は機会さえとらえれば、一気に浮上する資質を兼ね備えていた。

それは会津藩伝来の教育の成果でもあったのであろう。初代藩主・保科正之以来、武士の鑑を育て続けた会津藩の初等教育には定評があった。その教えは「ならぬことは、ならぬものです」で知られる「什(じゅう)の掟」に代表されるものである。

極寒の地に流されてなお、元の会津藩士たちが子供たちの教育を軽んずることは決してなかった。いやむしろ、その苦境の中でより強靱な心が錬り込まれれていったのである。



世間は柴五郎の光を放ってはおけなかった。青森県庁に採用されるや、上京して士官学校へと進むことになる。ちなみに、彼の同期には「坂の上の雲(司馬遼太郎)」の主人公の一人・秋山好古がいた。

日清・日露の大戦を陸軍に身をおいて戦い抜くことになる柴五郎。薩長閥の間をかいくぐるようにして大本営参謀となり、最終的には陸軍大将の地位にまで登り詰めることになる。

そうした長い戦歴の中で、柴五郎の名がひときわ世界に鳴り響くのが、冒頭に記した北京籠城戦。この戦において、柴五郎は武士として、日本人として、世界を刮目させることになるのである。



◎義和団


日清戦争で日本に敗れた後の清国(中国)は、「眠れる獅子」の化けの皮が剥がされ、「眠れるブタ」とまでバカにされ、そのブヨブヨのブタ肉には欧米列強が我先にとカジり付いていた。日本が勝ち取った遼東半島はロシアが横取りし、ドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしり取る。イギリスは威海衛、そして香港島対岸の九龍を手中に収める。

こうした状況にあっては、義和団ならずとも外国勢力の駆逐に炎を燃やすであろう。義和団の起こした乱は、日本でいえば幕末の攘夷運動である。

義和団というのは、三国志の諸葛亮や趙雲などを信奉する信仰組織であると同時に、武術組織でもあった。神が乗り移った者は、呪文を念じてその拳を振るえば、刀はおろか銃弾すら跳ね返すと信じられていたのである。





彼らが北京と天津の間にある鉄道(京津鉄道)を破壊したことが、北京城(紫禁城)を孤立させることにつながった。北京を目指していたイギリス中心の連合軍2000は、北京救援の道を絶たれたのである。それは同時に、北京城の各国公使たちの脱出の道が絶たれたことをも意味した。

その外国勢の劣勢を見るや、清の西太后は諸外国に「宣戦布告」を突きつける。この宣戦布告は長期的にはまったく無謀であったが、短期的な北京決戦だけを見れば、清には十分な勝算があったのだ。

こうして、義和団という民衆の反乱は、清国の後押しを受ける形になり、北京での戦いはほとんど外国勢をいたぶるような様相をていしてゆく。日本公使館の杉山彬は、義和団ではなく清の官憲に捕まり、心臓をくり抜かれた。



◎人徳


四面楚歌となった北京の外国勢。多くの外国公使が北京に滞在していたが、その中でも柴五郎は古株であった。そして、幸いにも彼は中国語、英語、フランス語と、多国語に堪能であった。将来語学が必要になるであろうことを直感していた若き日の柴五郎は、その修得を怠ってはいなかったのだ。

中国語で中国人とも意志疎通ができ、各国公使とは英語とフランス語で会話ができる柴五郎の周りには、自然に情報が集まってきた。それは語学のみならず彼の人柄がそうさせたのであろうし、彼の人徳でもあったのであろう。これは指揮官としてはじつに望ましい徳であった。



彼は自分から意見を述べることは少なかったのだが、議論紛糾したときなど、各国公使は決まってこう言った。「コロネル・シバ(柴中佐)の意見を聞こう」と。

アメリカの守っていた堡塁が激しく攻撃された時、応援にかけつけたドイツとイギリスは、突撃して大砲を奪えと激しく主張した。ところがアメリカはそれを認めない。そんな時にはコロネル・シバが呼び出される。柴五郎は言う、「成功の公算あり。しかし、今は味方の犠牲を最小にすべし」。彼の断は、即座に軍議をまとめる力を持っていた。



◎強き者たち


「日本軍を指揮したコロネル・シバは、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬されていた(ピーター・フレミング)」

イギリスのシンプトン氏のみならず、誰もが「日本人の小男に傾倒していた」のである。そして、柴五郎の率いる日本兵は強かった。

「戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった(ピーター・フレミング)」

「日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中ではコロネル・シバが最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス兵がこれに続くと思うが、しかし日本兵はズバ抜けて一番だ(ランスロット・ジャイルズ)」



◎最重要拠点・王府


日本軍の守る王府には、多くの中国人たちがいた。その中国人たちはクリスチャンであるために義和団から目の敵にされ、北京城に逃げ込んできていたのである。はじめ、各国公使は大量の中国人の受け入れに難色を示したのだが、柴五郎は即座に受け入れを決定した。

柴五郎の快い対応に感激した中国人クリスチャンたちは、積極的に王府の堡塁を築くのを手伝い、日本兵の協力に熱心であった。司令官の柴五郎のみならず、日本兵の多くは中国語を話せたために、中国人は日本兵によくなついたのである。

北京城内の外国勢は1000足らず。それに対して、中国人クリスチャンは3000以上。日本軍が中国人クリスチャンを味方につけたことは、大いなる戦力増強であった。中国人クリスチャンのなかには義勇兵として日本軍に従ったものも少なくなかった。



それでも日本軍の守る最重要拠点である王府は、途方もなく広かった。小高くなっている王府は、攻め落とされれば全体を見下ろす形で砲撃されてしまう。それゆえ、是か非でも守りきらねばならぬのが、この王府であった。

王府を奪う利は敵軍も承知である。ゆえにその砲撃も一段と激しい。その激しさゆえ、日本軍以外の外国勢はここを守ろうとしなかった。イタリア、フランス、オーストリア、ドイツなどの兵が加勢に来たりもしたが、王府の広さと攻撃の激しさを前にするや、「とてもじゃないが守りきれない」と引き返す有様であった。



◎智あり勇あり


それでも柴五郎率いる日本兵は一歩も引かなかった。睡眠時間は3~4時間、大砲で城壁に穴を開けて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが、延々と繰り返されていた。

敵の砲弾は豊富であるが、日本軍のそれは限られている。無駄弾は一発たりとも放てない。一発必中の応戦が絶対であった。そこで一計を案じた柴五郎。敵兵をわざと城内まで引き入れ、敵兵が城内に充満するのを十分に待ってから、突然の一斉射撃。敵兵は我先にと開けた穴から逃げ去っていった。

こうした戦果は、籠城者たちを大いに奮い立たせ、全軍の志気を大いに鼓舞した。そして、そのたびに屈強な日本軍への信頼は増していった。

「日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ!」



◎イギリスの信頼


イギリス公使館の壁に穴があけられ、数百の敵兵が乱入してきた時、柴五郎は安藤大尉にその救援を命じた。大使館の中では最も広大だったイギリス公使館には、各国の婦女子や負傷者が多数かくまわれていたのである。

迅速に馳せ参じた安藤大尉、イギリス公使館に到着するや、サーベルを振りかざし、またたくまに数名を斬り伏せる。続く日本兵も次々に敵兵を突き刺せば、あっという間に敵兵たちは浮き足立ち、壁の外へと逃げ出した。

この日本軍の華麗なる敵兵一掃は、イギリス公使館に避難していた多くの人々の眼前で行われたこともあり、それが一同の語り草となり、日本兵の勇敢さは一般の市民にまで知れ渡ることとなった。



それ以来、イギリス公使であったマクドナルド氏は、日本兵の活躍を心底信頼するようになった。日本の将兵の勇敢さと不屈の意志、最激戦地・王府での不眠不休の戦い、そして礼儀正しさと完璧な秩序…。

マクドナルド氏は日本軍というものを、北京城内で目の当たりにし、ともに戦ったのである。そして、日本軍に絶大の信頼を抱いたマクドナルド氏は、北京を戦い抜いた後に結ばれることとなる「日英同盟」を強力に後押しすることとなる。





◎事、成る


さすがの柴五郎にも疲れが見えはじめ、城内の弾薬も尽きかけた頃、大きな砂塵をあげた援軍がようやく北京にたどりついた。総勢1万6000の援軍はその大半が日本軍であり、彼らは北京を包囲する清国軍や義和団を蹴散らして籠城軍を救った。こうして絶望的だった籠城戦は、その2ヶ月を見事に耐え抜いたのである。

戦火のやんだ北京城内での、初の列国会議の席上、イギリス公使のマクドナルド氏は開口一番、こう言い切った。

「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」




列席していた柴五郎は、会議のあとに自軍へと戻り、ともに戦った皆にこの有り難い言葉を伝えた。一同から漏れる嗚咽の声。祖国の名誉を守れたこと、そして世界の人々から認められた誇らしさが、満身創痍の強者たちの心を満たしていた。

「立つ鳥、あとを濁さず」。熾烈な戦が終わってもなお、日本軍の規律は一切緩まなかった。柴五郎は日本占領地域での略奪を一切許さず、その治安の良さは中国市民のみならず、各国軍の間でも注目されるほどであった。

北京籠城に関する数多い記録の中で、「直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけであった」。



◎ロシアと日本


日本占領地域の治安の良さに対して、ロシア軍に占領された地域は悲惨なものであった。その地の住民等が続々と日本の占領区に逃げ込むほどであり、イギリス公使マクドナルドの元にもその苦情は届いていた。北京市長が「ロシア軍管区を日本軍管区に替えて欲しい」と懇願してきたのである。

日本軍が北京で籠城戦を戦っていた間、ロシア軍はといえば、その隙に乗じて、中国の北方・満州をまんまと占領していた。これにはイギリスも眉をひそめ、ロシア軍の南下に警戒を強めた。



柴五郎が北京で示した日本軍の強さと美しさ。それに対するロシアの強欲さと卑劣さ。その両極を身で知ったイギリス公使マクドナルドは、イギリス首相ソールズベリーに、日本との同盟を強く勧めた。イギリスと日本にはロシアの南下・極東進出を防ぐという共通の利害があったのだ。

その後、わずか半年、異例のスピードで日英同盟は締結される(1902)。この同盟締結により、イギリスは長年の伝統であった「光栄ある孤立」政策を一大転換することとなった。しかも、その伝統を覆す最初の相手国が、日本という非白人国家であったのは、世界の驚きであった。



◎イギリスの先見


世界が日本という国を誤解していたのは無理なからぬことである。この国はわずか30年前に国を開いたばかりであり、その文明は明らかに西欧諸国に立ち後れていたものだった。

日本という国家の資質に世界で一番初めに気づいたのが、聡明なるイギリス公使マクドナルド氏であった。柴五郎をはじめとするの日本兵に、いまだ輝ききらぬ原石の素質を見いだしていたのである。



イギリスは、大国・ロシアの野望を打ち砕くために、小国・日本に賭けた。そして、その日本はその期待に見事に応え、日露戦争においてロシアを打ち破る。とりわけ日本海における海戦は、世界最強と目されていたロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させるほどに叩きのめした。

日本の大勝利はイギリスとの日英同盟に支えられたものであり、そして、その日英同盟を結ばせた陰の立役者が柴五郎であったということだ。



◎敗者の輝き


先にも記した通り、柴五郎の功績は過小評価されている。明治の時代にあっては「会津」といえば「賊軍」、負け組の代表格だったのである。北京籠城の功により陸軍大佐となった後、とんとんと出世を繰り返すものの、時には閑職に追いやられたりもしている。

一方で世界の賛辞はなかなかやまず、欧米各国からは勲章の授与が相継いだ。「その当時、一番大きな働きをした者に教皇からダイヤモンドの指輪が贈られてきたが、ファヴィエ大司教はこの貴重な印をただちに柴大佐に贈呈したのである(ベルギー公使婦人の明治日記)」



柴五郎の没するのは1945年、まさに日本敗戦の年。この静かな小男は、いかなる心で敗れゆく日本を眺めていたものであろうか。敗戦の報を知った柴五郎は、自決を図る。しかし悲しくも、その想いは果たせずに死ぬことはできなかった。

武士中の武士を育て続けた会津に生まれ、会津を離れてもなお、彼は武士としての誇りと礼節を忘れることがなかった。自決を図った時には、幼き日に見た母ら女衆たちの決然たる死に様が去来したかもしれない。



会津落城という敗者から始まった彼の人生は、北京籠城という輝きを得ながらも、結局は日本敗戦という敗者として終わることとなった。

自決は果たせなかったものの、その年の暮れに彼は病没する。その墓所は故郷・会津若松。かつての兵営跡には、柴家の生家跡を示す石碑が残る。



◎日本人


彼が北京で示した日本人像は、欧米の日本人観を一新させるに十分であった。

「当時、日本人とつき合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、皆の目に映るようになったのだ」



はたして、それから100年が経過した日本人は変わったのであろうか?

世界が讃えた日本人の美徳は、いまだ我々の心の内に備わっているのであろうか。



幸い、日本の歴史上には、柴五郎しかり、その鑑となる人物に事欠かない。この事実こそが、まさに国家の宝であり、礎石であろう。先の大震災において、世界が再び日本人の美徳を讃えてくれたことで、我々が古き良き日本の延長線上に位置していたことを確かめさせてくれた。

願わくは、そうした歴史が積み重ならんことを…。我々が過去の偉人を賞賛する心を持つ限り、それは成されるのであろう…。







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出典・参考:
コロネル・シバ(柴五郎中佐)~日英同盟締結の影の立役者~
致知2012年7月号「日露戦争に勝利をもたらした世界的英雄・柴五郎の実像」

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