2012年8月26日日曜日

稲田朋美という政治家の憤。歴史を知り、国を知る。


もし、日本で初めて「女性の首相」が誕生するとしたら…?

それは「稲田朋美」氏(自民党・副幹事長)かもしれない。

森喜朗、阿倍晋三、両元首相等は彼女を「日本のサッチャーだ」と呼び、その他、多くの識者連中も彼女を熱烈に後押しする。



◎気骨ある女性・弁護士


「今、最高裁までがダメだと著書に書くほど勇気のある政治家は、稲田先生の他にいませんよ」、と渡部昇一・上智大学名誉教授は語る。

稲田氏は元々弁護士が本業であり、阿倍晋三・元首相のラブコールによって、政治家となった女性である。その彼女が弁護士時代に、「あぁ、日本は裁判所もダメなんだ…」と深い悲しみと怒りを感じた事件があった。

それは、南京「百人斬り」と呼ばれる事件の訴訟を担当した時のことであった。








◎百人斬り


「百人斬り」とは、第二次世界大戦の中国・北京攻略時、2人の日本軍少尉が「どちらが早く100人を斬るか」を競い合ったとされる出来事である。



「南京入りまで『百人斬り競争』という珍競争を始めた向井敏明、野田毅の両少尉は、さすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。

野田『おい、おれは105だが、貴様は?』

向井『おれは106だ!』

両少尉『アハハハハ!』

結局、いつまでにいづれかが百人斬ったか、これは不問。『ぢゃ、ドロンゲーム(引き分け)といたそう。知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢゃ!』(1937年12月13日・東京日日新聞)」



戦後、この新聞記事および、その時の日本刀が動かぬ証拠とされて、向井・野田両少尉は中華民国によって南京郊外で処刑されることとなる。

現在、中国・南京市にある南京大虐殺紀念館には、この新聞記事が「虐殺の証拠」として展示されており、台湾・台北市の国軍歴史文物館には、「南京大虐殺時の日本軍の刀」といわれる傷ついた刀が飾られている(その刀には「南京の役 殺一〇七人」と刻まれている)。





◎その是非


一聞しただけで違和感を感じずにはいられない「百人斬り」事件。南京大虐殺が絡んでいるということもあり、その真偽は当然のように論争の的となり、いまだに肯定派と否定派の間に横たわる溝は深い。

その是非を巡り、向井・野田両少尉の遺族は「死者に対する名誉毀損」として法廷に訴え出た(2003)。そして、その遺族たちを弁護したのが、稲田朋美・弁護士(当時)であったのだ。



稲田氏が憤(いきどお)るのも無理はないほど、裁判は一方的に進められていった。稲田氏が証人の出廷を要請しても、「どういうわけか」却下。裁判所は遺族ら原告側に反対尋問の機会も与えずに、そのまま遺族らは敗訴。

納得いかない稲田氏は、東京高等裁判所へ控訴するものの、たった一日で控訴棄却。つづく最高裁への上告も、上告棄却。

「どう考えても、何か大きな力が働いているとしか思えませんでした」と稲田氏。



◎日本刀


「考えてもみて下さい。日本刀で百人も斬れますか?」

遺族等を中心とした否定派は、「百人斬り」事件の不自然さを強調する。日本の戦国時代や幕末の動乱期ではあるまいし、銃器の発達した近代戦において、日本刀を振り回して敵陣に切り込む少尉などいたのであろうか。

そもそも、日本刀という武器は非常にデリケートな道具であり、「刀に付着した血脂はすぐに白くなり、時間が経つと固形化し、そうなってしまうと絶対に取れなくなる。布で拭ったくらいではダメで、砥石をかけなければならない。もし血刀をそのままにしておけば、一晩で真っ赤にサビてしまう」。



当時の官給軍刀というのは「昭和刀」と呼ばれるものであるが、その軍刀には粗悪品が極めて多く、「官給品は役に立たない」として、自前で伝統的な日本刀を所持する将校も多かった。向井・野田両少尉も自前の日本刀を持っており、向井少尉は「関の孫六」、野田少尉は「無銘ながらも先祖伝来の宝刀」を携えていたという。

いかなる名刀を持とうとも、スパリと人が斬れるかは修練次第。その技術は想像以上に高度なものであり、かの北辰一刀流の名手でも、切腹人の介錯に失敗することさえあった。



「百人斬り」の記事の記述を追っていくと、向井・野田両少尉は「一日平均、4~5人のペース」で斬り殺していることになる。

毎日毎日、丁寧に刀の手入れをしたとしても、相当に傷んだ刀を研ぎ上げるには「最低でも10日前後、長くて一ヶ月」もかかってしまうと言われる。

それゆえ、現場の兵等は「銃剣で刺してしまった方が、はるかに効率的」と考えていた。腰に携える日本刀は「愛国の精神的な象徴」であり、時として「重いばかりの代物」であったというのだ。



ちなみに、台湾・台北市に展示されている「一〇七人斬りの日本刀」には「98式軍刀」であり、南京攻略の1937年には存在しなかった刀である。さらには、軍刀のハバキ部分に彫られた稚拙な文字、「南京の役 殺一〇七人」は上下逆という至らなさである。



◎憤(いきどお)り


南京大虐殺の象徴的事件とされた「百人斬り」の是非は、ここでは問えない。稲田氏自身の憤(いきどお)りも、その是非にというよりは、遺族らの話を聞こうとうもしなかった裁判所側の不遜な態度に向けられたものであった。鼻から南京大虐殺を確定事項として扱っているような、その態度に…。

弁護士にとって、第二次世界大戦時のようなデリケートな歴史問題を扱うということは勇気のいることである。その賛否は激しく、国家間の問題にまで容易に発展してしまうのだから…。

ましてや、政治家がそれを口にすることすらはばかれる。政治家が靖国神社に詣でるだけで、日本海の向こうはハチの巣をつついたような大騒ぎになるのだから…。



◎東京「茶番」


それでも、稲田氏は果敢である。彼女は第二次世界大戦後の「東京裁判」にも堂々と異を鳴らす。

そのキッカケはと言えば、とある記録映画。東條英樹・元首相を担当していた清瀬一郎・弁護士が、こんな問いを発していたのを聞いたことだった。

「この裁判は、罪刑法廷主義とポツダム宣言に違反して、二重の意味で『国際法違反』である。この法廷に、この人たちを裁く権利があるのか?」





「罪刑法廷主義」というのは、「今日突然『禁煙法』をつくっても、昨日タバコを吸っていた人を裁けない」、つまり、「法律のなかった過去に遡っては、処罰できない」という近代法の大原則である(法の不遡及)。

具体的には、ポツダム宣言が出された時に戦争犯罪人でなければ、それ以前の行為に対して罪は問われない、はずであった。



しかし事実は、国際法違反であるとされる東京裁判において、法の不遡及という近代法の大原則を無視して、数多くの「A級戦犯」が処刑されたのである。

「これは『裁判』と呼ぶに値しません。言ってみれば『茶番』です。東京茶番」



東京裁判の起訴は、昭和天皇の誕生日(4月29日)に行われ、死刑の執行は当時皇太子だった現在の天皇陛下の15歳の誕生日(12月23日)に行われるという残酷さであった。

稲田氏の憤(いきどお)りは続く。「祖国のために命を捧げた人たちに着せられた汚名をなんとかして雪(そそ)ぎたい。貶(おとし)められた日本の歴史を何とかしたい…!」



◎勝者による復讐


やはり賛否のキッパリ分かれる東京裁判。肯定派は「法と正義」に基づく「文明の裁き」と呼ぶ一方で、否定派は「勝者による復讐の裁き」と呼ぶ。なぜなら、裁く側すべてが戦勝国の任じた人物であり、原爆投下を含めた戦勝国の行為はすべて不問とされたからである。

※判事に任じられた国は、すべて戦勝国の11カ国(アメリカ・イギリス・インド・フランス・オランダ・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ・フィリピン・中国・ソ連)。中国の判事は裁判官の職を持たず、ソ連とフランスの判事は法廷の公用語となった日本語と英語のどちらも使えなかった。



日本の懲罰に最も熱心だったのがオーストラリア。「天皇を含めて、日本人戦犯全員を撲滅する」として、「天皇有罪」の立場を貫き通した。

その一方、日本の肩をもったのがインド(当時・イギリス領)。インドのパール判事は、「事後法で裁くことはできない」として「全員無罪」とした(パール判決書)。





それに同調したのがオランダ。「東京裁判の判決は、どんな人にも想像できるくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名前を連ねることに嫌悪の念を抱いた(レーリンク判事)」。



のちにイギリスは「東京裁判は世界人権宣言の規定と相容れず、退歩させた」と述べている。さらに1951年、東京裁判を仕切ったアメリカのマッカーサー自身が、日本が戦争に踏み切った理由を、「侵略ではなく自衛のため」と証言している(アメリカ議会証言録)。



◎醸成された自虐史観


戦後の日本では、東京裁判を是とする「自虐史観」が常識とされていくのであるが、稲田氏はその風潮を決して是としない。

「歴史を知り、理不尽な裁判などを通じて、もう黙っていられなくなりました。言いたいことが溢れ出てきて止まらなくなってしまったんです。だから弁護士から政治家への道を選んだのです」

彼女が政治家への誘いを受けたのは、平成17年8月15日、奇しくも戦没者たちの英霊を祀る靖国神社を参拝していた時のことであった。

「私の政治家への道を開いたのは、靖国に眠る246万柱の英霊だと思っています」



◎神経過敏なる靖国参拝


昨日(8月15日)、民主党の松原仁・国家公安委員長と羽田雄一郎・国土交通相が靖国神社を参拝してニュースになっていた。「2009年に民主党政権になって以来、終戦記念日に閣僚が靖国神社を参拝するのは初めて」。

政治家が靖国神社を参拝しようとすると、周りの秘書や官僚が止めに入るのが常であるという。「先生、靖国に参拝した時の諸外国への影響を考えて下さい。中国や韓国から取引を停止されて、日本経済はガタガタになってしまいます!」

それでも靖国神社に詣でる政治家は、よほどに信念を持つ人ばかりである(小泉純一郎・元首相のように)。



当然、稲田氏は靖国神社を詣でる。

「今の日本の閉塞感は、靖国神社の英霊が篤く弔われていないことにあると思うのです。祖国のために命を捧げても、尊敬も感謝もされない国にはモラルもないし、安全保障もあるわけがない。

そんな国をこれから誰が命を懸けて守るというのですか」



◎靖国神社とA級戦犯


靖国神社が創祀されたのは明治2年(1869)、アメリカのペリーの来航以来の日本の国難に立ち向かった戦没者たちを弔うためであった。

明治維新の戦役ではおよそ1万5,000人、日清・日露の両戦役を通じては10万人以上(うち日露戦争が9万人弱)、2度の世界大戦では235万人近くの犠牲者たち(うち第二次世界大戦が230万人以上)が、靖国神社に「英霊」として祀られている。

※正確には「人」という数え方ではなく、「柱」と数える。それは神々を数える時の単位である。



なぜに、国家に殉じた死者を弔う靖国神社を詣るのに、他国の顔色を窺わなければならぬのか?

それは、この靖国神社に東京裁判でA級戦犯とされて処刑された14人の英霊が合祀されているからである。すなわち、靖国神社に詣でることは、A級戦犯にお参りすることであり、それは日本の軍国主義を礼賛することだと断じられるからである。



戦後の日本を支配したアメリカは、靖国神社を焼き払い、その地に犬のレース場を建設する計画を立てていたというが、その暴挙を止めたのは、ローマ教皇庁の代表であったビッテル神父。

「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦死に対して、敬意を払う権利と義務がある。靖国神社を焼却することは、犯罪行為である」と言い切った。

それ以来、戦後の国際連合において、靖国神社の廃止や、政治家などの公人による参拝の禁止や自粛を提案されたことは一度もない。現在でも公人による靖国参拝を槍玉に上げるのは、中国・韓国・北朝鮮のみである(たまにシンガポール)。

そもそも正当性の疑問視される東京裁判によって裁かれた戦犯の扱いには、微妙なものがある。ゆえに、その戦犯を祀っているからといって靖国神社への参拝を遠慮するのも、どこかチグハグな感じを免れない。



◎迷える魂の目印


第二次世界大戦を戦った兵士たちが「靖国で合おう」といって遠い戦地に旅立ったのは、死んで魂が故郷に帰るとき、その帰国の目印として靖国神社を選んだからであった。

「靖国のことを想えば、そこに仲間が集まっており、それを目印に戻って来られる」。もし、遠くの戦地で魂が迷ってしまっても、招魂の儀式により魂に呼びかければ、迷える魂もその呼び声を頼りにして故郷に帰れるということである。靖国まで戻れれば、自分の故郷までそれぞれの魂が帰り着くことは容易である。

終戦の日(8月15日)に靖国神社に参拝することには、遠く離れた戦地で心細く迷ってしまっている魂を呼び寄せる、そんな意味があるのである(現在、終戦日における特定の祭事は遠慮されているが…)。





◎政治家としての本望


多くの政治家たちが「政治的に」二の足を踏む靖国参拝。それを稲田氏は辞さない構えである。

「少々の犠牲を払ってでも自らの信念を貫く、一種の『狂』も必要だと想います。

これまでの首相や閣僚たちは、尖閣諸島だけでなく、竹島や北方領土も含めて『摩擦を起こしたくない』と言っていますが、摩擦を起こさずにどうやって領土問題を解決するんですか」



かつて、イギリスのサッチャー首相は「命に代えてでも、我がイギリス領土を守らなければならない」と言って、フォークランド諸島に進出してきたアルゼンチンとの戦争を断行した。反対した国防大臣をクビにまでして…。

そんな過激なサッチャー首相は、「テロに遭ったり、ホテルを爆破されたり」と執拗に命を狙われ、自身のブレーンを亡くしていく。まさに「命懸け」で領土を守り抜いたのである。





稲田氏はこうしたサッチャーの信念を高く評価する。

「政治家にとって、自分の信念に従って活動している最中にテロに遭って死ぬのも、ある意味、幸せな死に方だと思うんです。それは政治家の終わり方としては『本望』だと思うのです」

この稲田氏の言葉を聞いた渡部昇一氏は、いたく感銘を受ける。「このぐらい腹の据わった人に首相をやってもらいたいものだ。稲田先生なら本当に中国や韓国に対しても、今と同じことを言ってくれると思う」。



はたして、「憤」から発した稲田氏の「狂」は、危険なものであろうか?

もしかしたら、それこそが今の日本に欠けてしまっているものなのかもしれないが…。







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8月15日で戦争が終わったわけではなかった。植民地化を回避した終戦後の暗闘。



出典・参考:
致知2012年7月号 「将の資格 ~いま、政治リーダーは何をなすべきか~」

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