2012年7月27日金曜日

あえて低く建てられた「首里城」の意味するもの


「戦いの気配が感じられない城」

沖縄の「首里(しゅり)城」は、そう呼ばれている。

なぜなら、この城には戦闘を象徴する「天守閣」が存在しないからである。天守にあたる朱塗りの「正殿」は、2層3階という低い建物になっている。




◎外交により守られていた琉球王国


15世紀の沖縄に王国を打ち立てた「尚氏(しょうし)」は、「武力」ではなく「外交」で国を守ってきたのだという。

中心たる正殿の左手(北側)には、「中国」からの使節を迎える中国風の建築(北殿)があり、右手(南側)には「日本」から来る薩摩の役人が滞在する建物(南殿)がある。



もともとは中国(明)に貢物を納め保護を受けていた琉球王国(沖縄)であったが、日本に江戸幕府が成立して以降は薩摩藩の侵攻を受け(1609)、中国と日本の二重支配下に置かれることになる。

その両大国の狭間にあって、琉球王国は巧みな外交戦略により独自の地位を確立し、人口が17万人にも満たなかったという小さな王国でありながらも、400年以上にわたる繁栄を謳歌することになる(1429~1879)。

戦う意思を示さない首里城の正殿。それは、巧みな外交姿勢を如実に表現していたのである。低姿勢でありながらも、その内部は威厳に満ちている。朱塗りの王座はじつに壮麗であり、琉球王家の揺るぎなさを物語っている。





◎信仰の話としての首里城


そして、その王座の奥には「とっておきの部屋」が設(しつら)えてある。「おせんみこちゃ」と呼ばれるその秘された部屋は、現在でも立ち入りが厳しく制限されている場所でもある。その部屋では、神に仕える女性たちが国家と民の安泰を願い、「祈り」を捧げていたのだという。

すなわち、首里城は政治の中心であると同時に、「信仰」の中心でもあったのだ。




琉球王国の統治形態は「祭政一致」。

表面的には男たちが国をまとめるも、その裏方では女たちが神々とのつながりを保ち続けていた。男たちの仕事が「戦うこと」であるのならば、女たちのそれは「祈ること」だったのである。



沖縄固有の宗教とされるは、「琉球神道」と総称されている。神は一人ではなく、自分たちの祖先が神となる「守護神」と、遠方からやって来たとされる「来訪神」などがいる。偶像は存在せず、自然を聖地とする「御嶽(うたき)」が拝む場所とされていた。

琉球の神話によれば、沖縄を作ったのは太陽神の命を受けた「アマミキヨ」という神であり、アマミキヨは沖縄本島を作ったのち、9つの聖地と7つの森を作ったとされている。その聖地のうちの7つが特に神聖視される「琉球開闢(かいびゃく)七御嶽(うたき)」として語り継がれている。

祭祀を司(つかさど)るのは女性の役割であり、聖地「御嶽(うたき)」は完全に男子禁制とされていた(琉球王国時代)。御嶽(うたき)を管理する女性は、「ノロ」と呼ばれる神人(かみんちゅ)である。




◎権威ある女性たち


日本本土の巫女は、神主の補佐役的なイメージがあるが、琉球のノロは「司祭そのもの」であり、大きな影響力を持っていた。その権威は、時として国王をも凌ぐものであったのだともいう。全国に配されたノロたちは、いうなれば地方大名のような存在でもあり、神聖裁判を行ったという記録も残る。

公的なノロに対して、民間では「ユタ」と呼ばれる女性たちが、神々と人間たちを結びつけた。世襲的なノロとは違い、ユタになる女性は「巫病(ふびょう)」を発症してはじめてユタになるのだという。

巫病(ふびょう)というのは、生死に関わる事故や肉親の不幸などをキッカケにして起こる原因不明の体調不良(カンダーリィ・神倒れ)のことであり、ユタになることを受け入れない限りは、治癒しない病である。そのため、この巫病は「ユタになれという神からの命令」とも言われており、それを拒むのならば、死んでしまうと信じられている。



沖縄には「医者半分、ユタ半分」というコトワザがあると言うが、それはユタが精神的な病を癒すと信じられているからである。そんなこともあり、時代が経るにつれて、ユタの存在は為政者にとって脅威ともなってゆく。

それゆえに、ユタに対する禁止令や弾圧は、歴史上幾多と行われたが、それでも民間のユタに対する信頼は根絶やすことはできなかったという。





◎浄土・ニライカナイ


キリスト教の天国や、仏教の極楽浄土に相当する概念は、琉球神道では「ニライカナイ」となる。東方に位置するとされるニライカナイは、死者の魂が帰る場所である。そして、ニライカナイに帰った魂は、死後7代して親族の守護神になる。




ニライカナイの「ニライ」には「根」という意味もあるらしく、それゆえに日本神話の「根の国」を連想させるという学者もいる。

ニライカナイも根の国も「海の彼方」にあるとされていたが、「根」というニュアンスが「地下」に結びつき、天上に対する負の意味合いが付与された。そのため、根の国は悪霊邪気の根源とされることもあり、それが地獄的なイメージにもつながっていく。

しかし、琉球のニライカナイにはそうした負の連想はなく、むしろ明るいイメージの世界だとされている。「根」は地中にはる植物のそれではなく、生命や富の「根源」という意味合いが強いようである。

為政者たちは物事を上下の階層に組み込みたがるが、ニカラカナイの概念はおおむね「水平的」なものなのである。



◎危うい垂直、安定の水平


物事が「垂直的」になれば、それは崩壊の危険性を増すことになる。それに対して、「水平的」であるならば、それは恒久の平和を示唆することにつながる。

巧みな外交で国を守ろうとした琉球王国は、中国と日本、双方を立てていながらも、どちらか一方を立てすぎることはなかった。中国の使節をもてなす建物(北殿)と日本からの役人が滞在する建物(南殿)とは、同じ高さ・同じ場所にあるのである。



さらに、琉球王国の威厳を示す正殿は、高さはないものの、その中央に厳然と位置している。

方角的には「東」に位置し、それはニカラカナイの存在する方角でもある。祭政一致の琉球王国が建物の方角を意識したことは明らかであり、その威厳を示すのは建物の高さではなく、その方角だったのである。ここに、垂直的ではない、水平的な思想感覚をうかがうことができる。





◎争いを呼ぶ「高さ」


「高さ」は時として他者の警戒心を喚起させ、場合によっては闘争心をも刺激するかもしれない。日本の城郭を見ても、その高さを競い合った歴史があり、戦国最強と言われた大阪城の高さは随一である。

一方、戦国の世を制した徳川家康が建てた二条城に天守閣はない。ただ応接の場が設えてあるのみである。その低さこそが、世の中に平和が訪れた証(あかし)でもあった。

琉球王国には、はなから大国と戦火を交える気はなかったのであろう。中国の巨大さは火を見るよりも明らかである。首里城には海賊除けのための高い城壁は巡らされてはいるものの、大国の使者を迎える場は、はじめから低く低く作られていた。そこには、争いを誘発する垂直性はなく、協調性を示す水平性があったのである。





◎歴史に踏みにじられてきた沖縄

それでも、沖縄という島は大国の大足に踏みつけられてきた歴史が多い。薩摩藩の侵攻がそうであり、第二次世界大戦のアメリカ軍がそうである。

第二次世界大戦の沖縄戦では、日本軍が首里城の地下を掘って司令部を置いた(陸軍第32総司令部)。そして、アメリカ軍の砲撃は首里城を炎上させた。焼け残った宝物殿の財宝は米軍による略奪の憂き目に遭い、首里城にはアメリカの星条旗が高々と掲げられることになる。




沖縄が日本に返還された時(1972)、沖縄の人々は首里城の再建を求めたのはなにゆえか?

戦火に苦しんだ人々は、無意識にも平和の象徴であった琉球王国の影を求めたのかもしれない。そこにあるのは、海のように水平な安定であり、決して崩れる宿命をもった権威ではなかろう。



首里城内郭の南部を占める「京の内(けおのうち)」は、聖なる御嶽(うたき)であり、その森こそが首里城発祥の地とされている。それゆえ、この地への参拝は後を絶たなかった。

ところが、首里城が復元されたのち、なぜか無断での立ち入りが禁じられてしまい、それ以来、日常的に見られていた祈りの姿はパタと途絶えた。これを悲しみ、「首里城の建物は復活したが、礼拝所としては破壊された」との声も…。



◎月を示す指


はたして、人々が求めたものは物質的な建物だったのであろうか。

それとも、精神的な拠り所だったのであろうか。



物質的な事柄は、何モノかを示唆する存在に過ぎない。月を指差す指先は、月を指し示しているのであり、その指先を注視することには何の意味もない。

戦いを好んだ男たちは、その「指先」を奪い合っていたのかもしれない。そして、涙にくれる女たちは、密かに「月」を想っていたのかもしれない。



指先に固執する限り、争いは絶えぬのであろう。

それでも月を想う心が失われなければ、いつの日か眼前にニライカナイが現れるのかもしれない。



上へ上へと登って行った先には、いったい何があるのか?

そして、横へ横へと歩き続けた先には、何が待っているのだろう。






出典:新日本風土記 「城 戦の跡 夢の跡」

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