2012年7月5日木曜日

日本の海を拓いた「平清盛」


「清盛さん、清盛さん」と、その町の住人たちは「平清盛」に親しげだ。

この町にある「音戸の瀬戸」には、およそ800年以上も前に平清盛が開削したという伝説が残されている。

※「音戸の瀬戸」というのは、広島県呉市と瀬戸内海の島の一つである倉橋島(音戸町)の間の「狭い海峡」のことであり、最も狭いところでは100mも幅がない。






町の子供たちも「その伝説」に詳しい。

その昔、平清盛は「たった一日」で「音戸の瀬戸」を切り拓いたのだという。

当時、そこに海峡はなく、倉橋島は本州と陸続きであった。しかし、そこに海峡があれば海運が至極便利になるということで、平清盛はここに「海の道」をつけたのである。




子供たちは「一日で音戸の瀬戸ができた」と言うが、より正確に記すならば、この未曾有の大工事は着工から完成までおよそ10ヶ月を要している(1164~1165)。

子供たちが言うのは、その完成間際の「最後の一日」のことであろう。



その日(7月16日)はちょうど「引き潮」であり、この時をおいて他には「音戸の瀬戸」を完成させるのは難しく、是が非でもこの日に完成させなければならなかった。

平清盛の激励の元、人夫たちは血をにじませながら決死の難作業を敢行していた。



しかし、無情にも太陽は沈み始める…。

夏の長い日中とて、時が来れば日は沈む。




「今ひと時の陽さえあらば…!」と歯噛みした清盛。

すっくと立ち上がるや近場の日迎山へと駆け上り、今や沈まんとする西の太陽にこう叫ぶ。

「返せ!戻せ!」



清盛が手にしていた「金の扇」が太陽を招き返すかのように振られる度に、あら不思議、沈みかけていた「日輪」が舞い戻るではないか!

「それ、まだ陽はあるぞ」と督励する清盛。

Source: 4travel.jp via Hideyuki on Pinterest


かくして、世紀の大工事(のべ6万人の動員)は見事その日のうちに完遂し、ついに「音戸の瀬戸」は開かれた。

※清盛が金の扇を振った時に乗っていた大岩(日招き岩)には、その足跡がクッキリと残されている。




この「音戸の瀬戸」のおかげで、京の都から「厳島神社」への海路詣での距離がグッと縮まった。

※音戸の瀬戸ができる前までは、倉橋島の南端を大きく迂回しなければならなかった。



実利的な側面としては、この音戸の瀬戸のおかげで中国(宋)との「貿易」がよりスムーズにもなった。

清盛以前は「九州(博多)」までしかこなかったという異国の宋船は、清盛の尽力の末、瀬戸内の海をも往来するようになったのである。




音戸の瀬戸を越えてきた宋船は、現在の神戸港である「大輪田泊(おおわだのとまり)」に入港したという。

この「大輪田泊」というのは、日本初の「人工港」とも言われるが、その空前絶後の大工事は、これまた苦難を極めたと伝わる。



もともと地盤が軟弱であったため、いくら石を沈めても港の体(てい)をなさない。

困った清盛は「占い師」に見てもらう。

その占い師の御宣託には、こうあった。「石の一つ一つに『経文』を書いて海に投じるとともに、30人の『人柱(生け贄)』が必要だ」と。




ところが、清盛は「人柱」を許さない。

しかし、それでは港が完成の日の目を見ることはない。



この窮地を救ったのが、若干17歳の「松王丸」。

「自分を沈めて、30人の人柱を助けて欲しい」と清盛に願い出る。



千人の僧侶が滔々と読経する中を、静かに入水する松王丸。

その功徳があってか、この空前絶後の大工事はほどなく完成することになる。

※今も大輪田にある経島山来迎寺は、松王丸を供養するために清盛が建立したものであるという。



清盛が拓いた「海のシルクロード」は、時代の荒波の中を見事に生き続ける。

現在の「音戸の瀬戸」を往来する船舶は一日700隻以上。「瀬戸内銀座」とも称されるほどに毎日の賑わいを見せている。

かつての「大輪田泊」は「神戸港」。言わずと知れた堂々たる国際貿易港である。



歴史上では「敗者」となってしまったために、長らく歴史の陰に追いやられていた「平氏」ではあるが、今の時代に再評価されつつあるのは、当然の流れなのかもしれない。

平清盛が見た夢は、現代にも見事に通ずるものであったのだから。




「平氏」の起こりは「高望王(桓武天皇のひ孫)」とされ、その子孫たちは主に「関東地方」で勢力を伸ばしていた。

ご存知の通り、その子孫である「平将門」は関東地方で反乱を起こしている。



平清盛の直系となるのは「伊勢平氏」と呼ばれる一族で、平将門の乱の平定に功績のあった一派である。

彼らの根城とした「伊勢(三重県)」は、京都と関東地方とを結ぶ海上交通の要衝でもあったため、伊勢平氏は必然的に「海との関わり」を強めていく。



さらに、都から遥かに離れた関東地方とは違い、伊勢の地は「政権」を獲得できるほど都に近かった。

平清盛の祖父・正盛、そして父・忠盛などが政権獲得への野心を抱くのも、これまた自然な流れでもあったのだろう。



かつては番兵程度に軽くあしらわれていた武士が、清盛の異例の出世により、一躍歴史の表舞台に躍り出る。

清盛は「太政大臣」の位まで登り詰めるが、それは藤原氏以外では初めてであり、もちろん武士としても初めてであった。



都の内側にしか眼を向けようとしなかった貴族たちとは異なり、清盛の眼は「海の向こう」を睨んでいた。

その遠望の前には、音戸の瀬戸や大輪田泊の難事業はモノの数でもない。その向こうに見えている巨利はそれほどに壮大なモノであったのだから。



血縁である「高倉上皇」を船に乗せて瀬戸内海を旅した清盛は、たいそう誇らしかったであろう。

荒れ狂いそうになる瀬戸内の海も、清盛が「一睨み」すれば大人しくなってしまう。「にらみ潮」と言われる伝説によれば、清盛は潮の流れをも変えてしまったのだ。

※途中で立ち寄った「馬島」で高倉上皇が打った柏手(かしわで)が隣りの島まで「こだました」ということで、その島は「柏島」と名付けられた。




海路6日間の終着駅は「厳島神社」。これまた清盛の大傑作である。



海に浮かぶ巨大な鳥居を船で通過した先には、竜宮城のごとき社殿の厳かな佇まいがあった。




ただ無念なことは、清盛ほど遠くを見通せる人物が日本に数少なかったことであろう。

清盛の死後、渾身の「大輪田泊」は打ち捨てられた。その潜在的な価値を評価できる見識を持つ者は清盛以外にはいなかったのだ。



清盛の拓いた海のシルクロードは、皮肉にも源氏に追われた平氏の敗走経路となってしまう。

優雅な海の旅を楽しんだ高倉上皇とは対照的に、その息子である安徳天皇(清盛の孫)は瀬戸内海を追われて、ついには壇ノ浦の海に身を沈める。

こうして、清盛の栄華は「盛者必衰」の教訓とされ、しばらくは「歴史の悪」とされることになってしまうのだ。



島国の住民である日本民族には、どこか「内向き」なところがある。それゆえに、清盛のように外へ外へと向かう人物を正しく評価しないことも珍しくない。

これは現代にも通じる気質であり、日本企業が「ガラパゴス」と世界に揶揄される由縁でもあろう。



時が穏やかなれば、島で安穏としていることも是とされるのかもしれない。

しかし、歴史は時として大きく波打つことがある。平清盛という身分の低い武士が世に出ることができたのは、その波のおかげでもあったであろう。



そうした大波は、明治維新となって日本を一新させたり、太平洋戦争の敗戦となって日本を荒野に変えたりもした。

明治維新の大波は、日本を大国・ロシアに比するほどに強大化させ、敗戦の大波は、幾多の世界企業を日本から巣立たせていった。



そして今、人々が平清盛を再評価するのは何故(なにゆえ)か。

時は何かを必要とし始めているのであろうか。

島の外に眼を向けるべき波が迫って来ているのであろうか?



平氏を破った源氏は、江戸時代を通じて国を閉ざす選択をしていくことになるが、もし清盛の「外への志」が日本に根付いていたとしたら、今の日本はどんな形をしていたのであろう。

清盛が一時的にしろ歴史から邪険に扱われたことには相応の意味があるのであろうし、その彼が再び日の目を見ることにもまた相応の意味があるのであろう。







関連記事:
栄光と悲劇に生きた「源義経」。偶像化した義経の示すもの。

長き争乱の果てにたどり着いた「中尊寺金色堂」。平和の象徴は900年間守られ続けている。



出典:シリーズ平清盛 第4回 瀬戸内に生きる伝説

0 件のコメント:

コメントを投稿