2012年6月29日金曜日

使うほどに燃料が増えるという「夢の燃料」プルトニウム


そこには、「プルトニウムの缶詰」というものが置いてあった。

「プルトニウム」というのは断じて食品ではない。毒も毒、半減期2万4000年という化け物のような放射性物質である(原子番号94は、"苦しんで死ぬ"と覚えるのだとか)。

「その缶詰は、ポカポカと温かかった」と伊原義徳さん(88)は語る。プルトニウムが崩壊していく過程で発せられる「崩壊熱」で温かかったのだ。



彼がその缶詰に触れた場所は「アメリカ」。それは、伊原さんが「原子力」の技術を学ぶためにアメリカのアルゴンヌ国立研究所に留学していた時のことであった。当時、世界随一の原子力技術を誇っていたアメリカ。それだけに、猛毒・プルトニウムの扱いもお手の物であったのである。小さな缶に閉じ込めてしまうほどに。

アメリカの原子力に対する知識や技術に感銘を受けた伊原さんは、「あぁ、日本でも早くこんな缶詰が作れたらなぁ」と切に願ったという。






◎プルトニウムに見た夢


神戸に生を受けた伊原さんは、黎明期にあった日本の原子力発電を牽引してきた人物の一人である。

彼はプルトニウムに「夢」を見た。この物質の「秘めたる力」に魅せられたのである。

おおよそ人の手には負えそうもない化け物のような物質・プルトニウム。この物質を怒らせれば、第二次世界大戦における日本の最末期の惨状がこの世に現出する。長崎に投下された原子爆弾は、このプルトニウムであったことは日本人にとって生々しい。そして、その怒りは何万年と人を寄せ付けぬのだ(半減期2万4000年)。



伊原さんが魅せられたのは、この「悪の魅力」にではない。プルトニウムの持つ「増殖する」という不思議な性質に惹かれていったのである。

たとえば、車の燃料であるガソリンが、タンクの中で勝手に増えるということがあり得るだろうか? 当然、あり得ない。燃料は消費すればなくなる。それが当たり前だ。

ところが、「増殖」できるプルトニウムという燃料は、ひとたび火がつけば、勝手に増えていくのである。あたかも、細胞が分裂してその数を殖やしていくように。まさに「夢の燃料」。資源を持たない日本にとっては、ノドから手が出るほどに渇望すべき燃料であった。



◎小資源国・日本の願い


伊原さんが原子力に携わり始めたのは1950年代。終戦間もないその時代の人々は、先の大戦において、日本の主たる燃料であった「石油」の輸入を止められたことによって、どれほどの苦杯を飲まされてきたかを肌に感じて知っていた。

プルトニウムという化け物は、長崎を壊滅させた憎き仇であったかもしれないが、その憎しみ以上に「資源論」は切実であった。その葛藤の中、日本は原子力計画を推進すべく科学技術庁を設立したのであり、伊原さんはその一員となったのだった(1956)。



◎アメリカの高速増殖炉「EBR-1」


原子力先進国のアメリカには、すでにプルトニウムを燃料に用いた原子炉が完成していた。1951年に完成した「EBR-1」というのがその原子炉である。

その年の暮れようとしていたクリスマスの前夜、世界で初めて「原子力の灯」がアメリカに灯った。その最初の発電は、たった4個の電球を灯しただけの微力さであったが、この小さな一歩が後の世にどれほどの光を灯すことになるのか、それは我々の知るところである。




この世界初の原子炉「EBR-1」は、その2年後にプルトニウムが「増殖する」という科学者たちの仮説の正しさを証明した。

プルトニウムとウランを混ぜて核分裂させると、プルトニウムから飛び出した中性子がウランにぶつかり、そのぶつかられたウランが、世にも不思議なことにプルトニウムに生まれ変わってしまうことを立証したのである。

銀から金が生まれるような、燃料が燃料を生むというこの錬金術。理論上は、1000年にもわたって燃料を再利用し続けることが可能であった。




◎日本における幕開け


「資源論」の叫ばれていた日本にあって、増殖するという夢の燃料に白羽の矢が立ったことに不思議はない。そしてそれは、伊原さんがプルトニウムの缶詰を手にした時の感動とリンクした。

アメリカからもたらされて朗報が、日本における原子力時代の幕を開けたのである。日本に初めて原子力の予算が組まれたのは、プルトニウムが増殖することが証明された、その翌年の1954年であった(この時の予算2億3500万円は、この数字はウラン235にちなんだシャレであったとか)。



◎いきなりの挫折


ところが、プルトニウムの夢はいきなり座礁する。

日本が初めて予算を組んだその翌年(1955)、世界初の原子炉であったアメリカの「EBR-1」が、炉心溶融という重大事故を起こしてしまったのだ。




この事故により、見切りの早いアメリカは、あっという間にプルトニウムによる発電を諦めた。このタイプの原子炉は、いったん制御が効かなくなると、暴走して炉心溶融という重大事故にいたる致命的な欠陥があることが分かったからである。

以後、アメリカが進めていくのは「軽水炉」と呼ばれるタイプの原子炉であり、現在の日本の商用原子炉すべてがこのタイプである。世界でも80%以上がこれである。



◎増殖炉と軽水炉


プルトニウム型の「増殖炉」と比べて、軽水炉はその名のイメージ通りに「お手軽」な原子炉であった。増殖炉に比べて、造るに安く、扱うに容易だったのである。

増殖炉と軽水炉の決定的な違いは、原子炉の中で用いられる液体である。具体的に言えば、増殖炉では溶かした「金属ナトリウム」が用いられ、軽水炉では「水」が用いられる(素人目に見ても、水を用いる軽水炉のほうが手に取り易そうである)。




増殖炉で金属ナトリウムが用いられるのは、中性子のスピードを落とさないためである。ウランがプルトニウムに生まれ変われるかどうかは、中性子のスピード如何にかかっている。「高速」で衝突することにより初めて、夢の増殖が起こるのである(これが"高速"増殖炉と言われる所以である)。

一方、軽水炉のように水を用いると、中性子のスピードは極端に遅くなる。どうやら、中性子は水の中を泳ぐのが苦手なようなのである。そのため、増殖という現象は決して起きない。しかしそれでも、「発電」という目的を達するためだけであれば、十分すぎるほどのパワーは出せるのだ。



◎一方通行の軽水炉


発電の用をたすだけならば「軽水炉で良し」としたアメリカの判断は、じつにビジネスライクであった。大量生産・大量消費の原子炉は、こうして世界に量産されていくことになる。

一方、プルトニウムのもつ再生可能性にこだわり続けた日本は、ある意味、愚かだったのかもしれない。しかし、その愚かさを笑うわけにはいかない。伊原さんらがこだわったのは、燃料を大切に使い、ゴミもリサイクルできるという愚直な几帳面さであったのだから。



現在、世界には核のゴミがあふれているのは、軽水炉の燃料が「使い捨て」にされ、リサイクルの仕組みがほとんどないためである。

この40年間で日本が出した「使用済み核燃料」は1万4000トンを超え、年間1000トンのペースで増えるこれらのゴミは、あと6年ほどで国内のゴミ箱を一杯にしてしまう勢いだ。



悲しいことに、ゴミ箱が一杯になった後の計画は「成りゆき任せ」である。「まぁ、しかし、私も隠居の身になりましたから、あとは若者に任せて…」などと言う官僚もいるくらいに、無責任なことである。

さらに悪いことには、ゴミをゴミ箱に入れただけでは問題は解決しない。そのゴミは今後何万年にもわたって異臭(放射能)を発し続けるのであるから。




◎絵に描いたモチに終わった核燃料サイクル


原発を始動させた当初、40年後の世界を核のゴミでいっぱいにしようなどという思いはなかった。少なくとも、伊原さんは「そうしたくない」と思っていた。増殖する燃料・プルトニウムを主に用いて、原子力発電を持続可能なものにしようと邁進していたのである。

彼らの描いた理想は、使い捨てに終わる軽水炉型の原発から出る「使用済み核燃料」を再処理工場に送り、そこからプルトニウムを取り出して、高速増殖炉で発電を行うというサイクルであった。一方通行に終わる軽水炉を、循環を生む増殖炉で補完して、永続的なものにしようと考えたのである。

しかし、アメリカが早々に見限った増殖炉は、その後の日本でも足踏みしたまま遅々として進むことがなかった。日本で唯一の高速増殖炉「もんじゅ」は、今だに一度として本格稼働していない。




◎軍事の顔をもつプルトニウム


アメリカが増殖炉を捨てた理由は、先に述べた商業的な側面のほかに、軍事的な背景もあった。世界に増殖炉が普及してしまうことは、核兵器の材料となるプルトニウムを世界中に増産してしまうことも意味したのである。

核兵器の原料は大きく2つ、ウランとプルトニウムがある。ウランを原料に用いるには、それを高い技術で「濃縮」する必要があるために、ウランによる核兵器開発はプルトニウム以上に困難である。

一方、プルトニウムを用いた核兵器は比較的簡単に作れてしまう。ただ、上手に爆発させるためには必ず実験してみなければならない。この点、ウラン型は実験なしでも爆発の失敗は少ない。

※広島に落とされたのは爆発の失敗の少ないウラン型、長崎に落とされたのはプルトニウム型。2つも日本に原爆を落としたのは、両タイプを試してみたかったのではとの批判もある。




造るのに容易なプルトニウム型、爆発させるのに容易なウラン型。両者を比較してアメリカが恐れたのは、プルトニウムの方であった。

そのため、アメリカが世界に広めた原発はウラン型なのであり、軍事転用の恐れの高いプルトニウム型は、EBR-1の炉心溶融事故もあって、アメリカの選択肢から外されたのである。



◎プルトニウムにこだわり続けた日本


それでも、日本は再生可能なプルトニウムによる原発にこだわり続けた。これにはアメリカも腹を据えかねた。1970年代、あからさまに内政干渉をしてきて、日本の核燃料サイクルに「中止」を求めてきたのである。

おそらく、伊原さんら、ごく初期に原子力を夢見た人々に兵器転用などという頭はなかったのではあるまいか。彼らは純粋に日本の未来のエネルギーを心配していたのである。



しかし、そうでない人々も確実にいた。1960年代から1970年代にかけて、近隣の中国、そしてインドが相次いで核実験を成功させ、核保有国となっていた。警戒を強めた日本で、「日本にも核兵器を」という話が持ち上がってきても不思議はなかった。

この時代、第二次世界大戦を身体で知る勇ましい世代は、まだ現役であった。たとえば、真珠湾攻撃にも航空参謀として参戦していた「源田実」氏などは、「核のオプション(選択肢)」を失ってはいけないと訴えている。



しかし、世界唯一の被爆国である日本の国民感情はそれを決して許さない。そのため、アメリカが日本に疑心を抱いたまさにその通りに、核兵器の原料を生産できる増殖炉が、その隠れ蓑となっていた。

原子力発電を続ける限り、好むと好まざると、意図しようと意図せざるとに関わらず、軍事に転用する素地はできてゆくのである。「原子力の技術開発は、核兵器の製造のための扉を一つ一つ開いていく」。これは政府の報告書に残る文言である。

アメリカというお天道様の気まぐれで天気は変わりうる。「折りたたみ傘」を持っておくに越したことはない、という思いが日本政府にはあったのだ。日本の技術力をもってすれば、2~3年もあればその折りたたみ傘を開くことが可能であった。



◎軍事利用か、平和利用か


「核不拡散」という錦の御旗を掲げたアメリカは、その日本の動きを見逃さなかった。「カナマロ会」というのは、日本が極秘裏に進めていた原発の軍事転用計画であったが、アメリカのCIAはこの動きをごく初期の段階で察知していた。

日本の経済力、そしてその高い技術力を1970年代のアメリカは必要以上に恐れた。それゆえの内政干渉、核燃料サイクルの中止要請であった。日本はドイツと並んで最大懸念国だったのである。



軍事転用などはツユほども考えない「平和ボケ」と揶揄された伊原さん等は、このアメリカの横暴な横ヤリに憤慨した。

「勝手きわまりないアメリカの核不拡散法を、『お前も飲め』とは内政干渉も甚だしい。アメリカには日本を『属国』と考えている人が多くいる」とは、元科学技術庁「島村竹久」氏の隠し切れなかった怒りである。



◎勢いを失った核燃料サイクル


1970年代におけるアメリカが持ち出した核不拡散のゴタゴタは、10年以上も世界中で議論された末、結局はアメリカが折れることになった。というのも、増殖炉を組み込んだ核燃料サイクルを捨てたのは大国ではアメリカばかりで、ヨーロッパの大国は日本の味方だったのである。

しかし、このゴタゴタの中ですっかり足止めを食らってしまった日本の増殖炉計画は、その後、根っこが生えてしまったかのように動きを止めてしまう。

その間、アメリカの売り込んできた軽水炉が着々とその根を伸ばし、1990年代には日本に40基以上の軽水炉が稼働するようにまでなっていた。そして、その一方的に排出され続ける放射性のゴミ問題は、増殖炉計画の座礁とともに捨て置かれたままにされていた。



◎決まらない最終処分場


「NIMBY(ニンビー)」という言葉は、「Not in my backyard(俺の裏庭だけはダメだ)」の略語であるが、これは核のゴミを自分の裏庭(地元)に捨てられるのだけは困るという感情を示すに十分だ。何万年と放射能を吐き出し続けるゴミをいったい誰が好き好んで受け入れようというのか。

今のところ、日本にその最終処分場はない。それどころか、それを再処理する六ヶ所村(青森)の工場、リサイクルする高速増殖炉「もんじゅ」も止まったままだ。絵に描かれていたモチは、そのままカピカピになってしまっているのである。

そうこうしている間に、猛毒プルトニウムは国内に20トンも貯まってしまった。フランスやイギリスなどの他国に「使用済み核燃料」の処理を依頼するも、厄介者のプルトニウムばかりは送り返されてきてしまうのだ。



◎誰も手なずけられない猛獣・プルトニウム


プルトニウムの缶詰に触れた時に抱いた伊原さんの夢は、缶詰の中に閉じこめられたままである。

この缶詰を開けて、中身を楽しむ技術はよほどに高度である。放射能の化け物であるプルトニウムを手懐けるのは、猛獣をペットにしようとするようなものであったのだ。

その猛獣を核兵器という檻の中に閉じこめておくのは、それほど難しくないにしても、その猛獣を増殖させてそのエネルギーだけ頂こうというのは、虫の良すぎる話だったのだろうか。




この猛獣が本領を発揮できるのは、金属ナトリウムの中だけである。金属ナトリウムというのは、プルトニウムほどではないしろ、これまた暴れん坊である。空気や水を極端に嫌い、それらに触れた途端に大爆発を起こしてしまうのだ。

そのため、ナトリウムが漏れたり、中に空気が入らないようにするため、その配管には高い機密性と技術力が要されるのである。



不幸にして、日本の夢であった高速増殖炉「もんじゅ」は、そのデリケートなナトリウムの犠牲となってしまう。この原子炉が稼働したのは1995年8月。そして、ナトリウム漏洩事故を起こすのが、そのわずか4ヶ月後である。事故の事実隠蔽の疑いも浮上するや、国民感情は爆発。こうして、「もんじゅ」の進むべき道は閉ざされたのである。




◎泣きっ面にハチ


増殖炉に代わる代替策とされたのは、「プルサーマル」という手法であった。これは既存の軽水炉の燃料にプルトニウムを混ぜて燃やすというものである。ここには、国内に貯まり続けるプルトニウムを少しでも減らそうという目論見があった。

しかし、プルトニウムがらみの技術は極めて高度で、お金もかかる。それゆえ電力会社は増殖炉にしても、プルサーマルにしても極めて消極的である。それでも国から命じられれば、少しくらいはやらないわけにはいかない。こうして、嫌々ながらも、国内4カ所でプルサーマルは実施された。




ところが、プルトニウムの怨念ふたたび。またしても不幸にして、事故が起きる。しかも、今回のはとびきりだ。周知の通り、東日本大震災における福島第一原発の事故がそれである。

爆発した3号機こそがよりによって、国内に4カ所しかないプルトニウムを燃やしていたプルサーマルだったのである。この事故により、周辺には猛毒プルトニウムがバラ撒かれてしまっている。




◎明後日の方向を向いていた最初の一歩


核燃料サイクルという発想は、至極まっとうな考えであると思う。使ったモノを片付けなければ、ゴミは溜まる一方であるのだから。

しかし、「行きは良い良い、帰りは恐い」。核を壊す(分裂させる)のは簡単でも、その壊れた核を片付けるのはそうそう容易ではなかった。それゆえに、誰も触れないゴミは放っておかれ、それが黙認されてきたのである。



もし、原発の最初の一歩が「輪を閉じるサイクル」を意識したものであったら、現在、そして未来の状況はまったく違ったものになっていたのかもしれない。

しかし、原発の黎明期は戦争の時代とも重なっていたために、後々のことまでを慮(おもんぱか)る余裕はなかった。他国に対しての疑心は鬼と化し、原発は「平和利用と軍事転用」の二者択一の天秤にかけられるばかりであったのだ。そこには、間違っても「現在と未来」の天秤は登場しなかった。



◎夢幻のごとく


資源が湯水にようにあるアメリカとは違い、日本は限られた島国での歴史が長いだけに、アメリカのような「使い捨て」の文化は肌に馴染まなかったはずである。しかし、理想はあれども大きな流れには逆らい切れず、結局は日本もアメリカと軌を一にせざるを得なかった。

核燃料サイクルに真剣に取り組んだ伊原さんなどは、その大きな流れに逆らった少数派なのであり、彼らの夢はその流れの激しさの中に息も絶え絶えである。

「増殖する燃料」という夢は、夢の域を出られなかったゆえに、「原子力村」という非難にさらされることにもなってしまった。



◎限りの迫るエネルギー


冷静になれば、現在の我々が用いている燃料が、すべて有限であるのは自明である。その文字が示すごとく、燃やせばなくなるのである。

それでも、前世紀(20世紀)という時代は、その有限性に目を向ける必要はおおよそなかったといってよい。石油にしても、原発のウランにしても100年以上も持つのならば、それは当時の人々にとっては「無限」だったのである。



ところが、100年単位で物事の先を考えるとき、そのレールの先が途切れていることに気づくのは難しくいことではない。21世紀に生きる我々には、その先のなさに少々慌て始めているではないか。

さらに悪いことには、ただでさえ先の長くないレールの上に、大量のゴミが乗せられてしまっていることである。行き場の決まらぬ放射性廃棄物は、そのレールの寿命をさらに短くしてしまいかねない。



前進を続けるしかない我々にとって、過去の愚行を責めてばかりいても意味はない。この先のない燃料に希望を見い出すには、過去にも正しいレールがあったことに思いを馳せるほうが、より有用であろう。

過去には幾多の困難によって阻まれてしまったレールであれども、技術が進むことにより再び通れるようになっているかもしれない。



◎たとえ小さな灯火であろうとも…


進めば進むほど狭くなっていく道を進もうとするのか、それとも、行けば行くほど選択肢の広がる未来を夢見るのか。

エネルギー問題は、未来を志向する人類にとって、格好の試金石でもあるのだろう。

過去を振り返り想うことの一つは、どんなに絶望的な時代にあっても、かならず希望はあったということだ。たとえそれが消え入りそうに小さな灯火であったとしても…。




はたして、夢の缶詰はパンドラの箱であったのか?

それを決めるのは、幸いにも「これから」の話である。






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出典・参考:ETV特集 「“不滅”のプロジェクト~核燃料サイクルの道程」

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