2012年6月13日水曜日
憤怒の「蔵王」、静かなるひと時。
昔々、雪深い山あいのその村は、「冬は寝て暮らす」より他になかったという。
なにも、好き好んで寝ているわけではない。それより他、何もできぬ土地柄だったのである。米を作るにも不向きで、冬場に山上から吹き降ろす寒風は、全てを凍てつかせてしまうのだ。
ここは「蔵王」の麓の村である(山形)。
「蔵王」という名は、かの「蔵王権現」からとられている。
蔵王権現というのは、修験道の祖とされる「役行者」が呼び寄せたと謂われる仏様である(この仏様は、珍しくもインドや中国に起源を持たない、「日本独自」の仏様なのだとか)。
何故、そのような名がつけられたかと言えば、その山があまりにも「荒ぶる山」だったためである。100万年前から続くという「火山活動」。地の底深くマグマのたぎる火の山は、火を噴いてやまなかった。
その「荒ぶる山」を鎮めようと、都からは何人もの修験者たちが送り込まれ、その頂きに多くの神々を祀った。そして、その祈りの中心が「蔵王権現」だったのである。
蔵王権現というのは、仏様と呼ぶには似合わぬほどに「猛り狂っている」。
実に躍動的なその様は、煮えたぎるマグマを具現しているようでもあり、その形相たるや、思わずひれ伏さずにはおれぬほどに恐ろしい。まさに、噴火続きの荒ぶる山そのものである。
蔵王という山はそれほど人を寄せ付けぬ山でもあったのだ。
蔵王が最後に火を噴いたのは、明治28年(1895)。
「火が垂直に舞い上がるほどの激しい噴火」。
近くの硫黄採掘場で働いていた人は、こう記している。「爆裂後、本地には一種のガスを発散し、人皆、目まい、卒倒せり」
硫黄が溶けた酸性の水は、いまだに生き物を生かしてくれない。噴火口となった「御釜」は元より、その水が流れ出る「酢川」もそうだ。
しかし歴史上、その荒々しさはかえって修験者たちを魅了し、いつしかその山は「聖地」とされていた。
それでも、その土地に暮らす人々にとっては、厳しい環境は「苦」以外の何物でもない。「苦」を好んで求めるのは修行者ばかりである。
江戸時代、その厳しい蔵王に、ある一羽の鳥が「幸運のタネ」をもたらす。
そのタネはまさに実際の種であり、それは「柿」の種であった。その種は鳥が運んだとも、洪水が運んだとも、さらったゴミの中から出でたとも伝わる。
その由来はいずれにせよ、この種が発芽し、この貧しい村に「富」をもたらしたのは確かであった。
川口久右衛門の庭先に芽を出したというその種は、すくすくと成長し、いずれ「紅」のような美しい実をつけた。
そこで、山形のお殿様にその美しい柿を献上したところ、たいそう喜ばれ、その場で「紅柿」と命名されたという。
「秋に至り、数百万の取実ありて、その利を得、『莫大の潤ひ』とな り…(関根川口敏氏所蔵掛軸)」
平たく言えば、紅柿によって「大儲け」したのである。
長年住民たちを悩まし続けた蔵王からの寒風。それがこの時とばかりは、大いなる味方となった。その風が吹き下ろしてくれるお陰で、たいそう質の良い「干し柿」ができたのだから。
その干柿に吹く「白い粉(糖分)」は高品質の証である。
「真っ赤な火」を噴く山のふもとで実った真っ赤な柿は、その寒風にさらされて「真っ白な粉」を吹くのである。その白い粉の吹いた様は、「小判」を連想させるとして、たいそうな「縁起物」としても扱われたのだという。
※今もこの地の「おせち」に干柿は欠かせない。この干柿を食えば「お金がたまる」と言い習わされてきているのである(なお、この紅柿は、今でもこの地「山形・上山」の特産であり、「干し柿の品質は無類」と絶賛されている)。
江戸時代、別の「白い粉」も蔵王に富をもたらした。
それは温泉成分を干し固めた「湯の花」である。それが遠く江戸の町にまで出荷されていたのである。
その湯の花は、限られた家だけが作れる特権であり、その特権をもつ人々は、「湯之花取仲間」という組織をつくっていた(今なお、その伝統はこの地に息づいており、誰もが湯の花を取れるわけではない)。
温泉成分の濃い蔵王温泉のお湯は、温泉を引いてくるパイプを詰まらせる厄介モノでもあったのだが、それは取りも直さず、湯の花の豊富さをも示している。
現在でも2ヶ月に一度は真冬でも、温泉成分が蓄積するパイプの内側を清掃しなければならず、そしてその作業はそのまま「湯の花取り」ともなるのである。
さて、いよいよ蔵王の話は現代につながってくる。
今の人々が「蔵王」と聞いて連想するのは、「スキー」をおいて他になかろう。
蔵王がスキー場として名を馳せるのは、明確なスタート地点がある。それは昭和25年(1950)である。この年に何があったかといえば、戦後に日本を支配していたGHQが、ある人気投票を行ったのだ。
それが「観光地百選」であり、そのトップに「蔵王」が選出されたのである。
この地に生を受けた歌人・斎藤茂吉もその喜びを詠っている。「みちのくの、蔵王の山が、一等に、当選をして、木通(あけび)霜さぶ」。
以後、皇太子さまが蔵王を訪れたり(1951)、白洲次郎が別荘を構えたり、映画が撮られたり…。
蔵王の「樹氷」を世界で初めて撮影し、海外に知らしめたのが「塚本閤治」。英国国際コンテスト風景実写部門1等賞を受賞した「Mount Zao」という映画は、その他多くの賞を海外で受賞している。
「トニー・ザイラー(オーストリア)」は、20歳そこそこでオリンピック(コルチナ・イタリア)の三冠王に輝き、その周辺の世界大会の金メダルを総ザライにもした伝説のスキーヤーであるが、彼の主演する映画「銀嶺の王者」は、ほかならぬ蔵王で撮影されたものである。
※皮肉にも彼は、映画によりスキー界を引退する。若くして名を馳せた彼は、その「爽やかな美男子ぶり」を買われ、以後、俳優に転向したのである。
大昔の蔵王は、火の山として恐れられ、寄る人といえば修験の修行者ばかり。その熱すぎる火山とは裏腹に、寒すぎる寒風は、人々の食を脅かし続けてきた。
その蔵王が、いまや世界に知られる観光地となり、土地の豊かさは果樹王国とまで称されるようにまでなっている。
もし、300年前、庭先のゴミから柿の芽が出なかったら…。
もし、スキーがなかったら…。
この地は、また別の顔を見せていたのかもしれない。
今の我々は蔵王に火山の影を見ることは、まずない。
しかし、この山が火山をやめたわけでは決してない。
世界中の人々がこの地に遊ぶようになったのとは裏腹に、この山がかつて溶岩流で満たされた地域(現在のスキーエリア)には、いまだ猿たちは足を踏み入れないのだという。すぐそこの果樹園では、猿の群れがサクランボをかじっているというのに。
それは、「太古の記憶が、猿たちにこの地に住むことを躊躇させているのだ」、という人もいる。
有史以降の蔵王の火山噴火を見ても、773年、1227年、1624年、1694年、1809年、1831年、1867年、1895年と数多い。100年に一度くらいは暴れているようだ。
いまは静かに鎮座なさっている蔵王権現さまであるが、それは一時の休息を楽しんでいらっしゃるのかもしれない。
人の記憶は幸せにも忘れやすい。
地震や津波も、過去になれば忘れることができてしまう。
それに比して、地球規模の動きのなんと緩慢で、悠長なことよ…。
出典:新日本風土記「蔵王」
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿