2012年6月6日水曜日

民間人が狙われた本土への大空襲


時は第二次世界大戦、最末期。それは終戦の年(1945)である。

日本軍には勝ち目がないどころか、戦闘余力も怪しくなりつつある中、アメリカ軍ばかりが元気一杯で、日本本土に対する「空襲」を盛んに繰り返していた。

日本国内の主要都市は言わずもがな、地方都市でさえ、空爆を受けなかった都市を数える方が早いほどに、ありとあらゆる都市に焼夷弾の雨が降り注いでいた。






当時、まだ少年だった神倉稔氏は、その時「横浜」にいた。

「横浜大空襲」は、5月29日の白昼堂々おこなわれた攻撃であり、横浜の中心市街地の97%が焼失。犠牲者は8000人とも一万人とも言われている。



その狂奔の中、母親に手を引かれた神倉少年は、避難先の小学校へと真っしぐらに駆けていた。

逃げ惑う大勢の人々が押し合いヘシ合い、燃え狂う炎が背に迫り、「進め!進め!」とそこら中から怒声・罵声が嵐のように上がっていた。



その人の波に揉まれるように、神倉少年は小学校の音楽室へと押しやられた。

そこまで来て、彼はふと気づく。「あれ、お母さんがいない」。

しかし、戻ることなど到底かなうはずもない。ただただ大声で「お母さん!お母さんっ!」と叫ぶばかり。その声も、喧騒の中に掻き消され…。



母子が離れ離れになったのは、たいへんに不幸なことであったが、神倉少年個人の命にとっては、皮肉にも幸いしてしまった。

それが、母子今生の別れとなり、神倉少年ばかりが生をつなぐこととなったのだ…。

激しい炎をのせた旋風が音楽室の窓を砕き、その狂った炎が教室全体へと燃え広がる最中、神倉少年はその割れた窓から思い切って校庭へと飛び出し、九死に一生を得たのである。



この5月29日に横浜で起こった大惨劇は、アメリカ軍によって「Excellent(優秀)」と評された。

その成果は、終戦後、横浜の焼け野原とともにアメリカ軍がしっかりと撮影している。爆撃機「B29」は、横浜の中心市街地の97%を焼失させるという大成功を収めたのである。




この横浜大空襲が計画されたのは、その実行に先立つこと2年前。

その緻密な計画は、のちの人々を驚かせた。なんと、アメリカ軍が「焼夷地区(火災で燃やすのに適した地区)」としていたのは、軍需施設が集まる海岸地区ではなかったのだ。

「焼夷地区」と指定されていたのは、神倉少年が暮らしていたような「木造住宅が密集する市街地」ばかりであった。



すなわち、アメリカ軍は「市民が暮らす街をどう燃やすか」を入念に計画していたのである。

横浜市民は「空襲に巻き込まれた」のではなく、明らかに「標的とされていた」のである。




そして、空襲に用いられた焼夷弾も、日本の住宅家屋を効率良く破壊・炎上させるために「最適化」された専用の爆弾であった。

なぜなら、通常の焼夷弾では、破壊できる家屋は「爆風の及ぶ範囲」に限定されてしまい、その被害は「散発的なもの」としかならなかったからである。



それに対して、新たに設計された焼夷弾は、日本家屋の瓦屋根を貫通できるように設計されており、内部から火災を起こさせる確率が大きく高められていた。

アメリカ軍は入念にも、日本家屋を再現した実験場まで作って、大規模な延焼実験まで行っている。その家屋にはハワイから取り寄せられた「畳」までが敷かれていたという。



関東大震災の被害実態をつぶさに検証したアメリカ軍は、日本の人口密集地域が、火災に対して極めて脆弱であることを突き止めていた。

そして、空襲の被害を最大化させるために、その目標地区として木造の住宅街を選定し、より広範な火災を起こさせるように計画していたのである。

その計画通り、「東京大空襲における被害地域・規模は、関東大震災の延焼地域とほぼ一致」しており、その成果は大震災をはるかに上回るものとなっている。



横浜大空襲(5月29日)に先立つこと、およそ2ヶ月前、東京大空襲は3月10日に行われた。

アメリカ軍の選んだ3月10日という日は、冬の季節風が強く吹く、延焼効果のより高い日でもあった。その計算通り、大空襲の炎の煙は高度1万5000mの成層圏まで達し、地上では秒速100m以上という竜巻並みの焼ける暴風が吹き荒れた。

このたった一夜にして、10万人の命が吹き飛び、東京の半分以上はブッ壊れてしまっている。日本側の甚大な被害に対して、アメリカ軍の損害は、撃墜・墜落が12機、爆破が42機と、極めて小さなものに抑えられた。

それが、東京大空襲の成果をアメリカ軍が「Excellent(優秀)」と評価する所以である(横浜大空襲と同様に)。





結局は民間家屋を破壊し尽くしたアメリカ軍の空襲ではあるが、元々の計画では住宅街を標的とするものではなく、軍需工場や精油所などの施設のみを攻撃する計画であった。

いくら時代が時代とはいえ、非戦闘員である一般人を巻き込む「無差別爆撃」は、人道上、多大なる問題があったのである。



ところが、その計画は一変してしまう。

それは、人事の変更が大きなキッカケであった。1945年1月21日に交代した「カーチス・E・ルメイ」氏が、大規模な「無差別攻撃」へと切り替えたのだ。

爆撃の効果を高めるために「低空飛行」を命じたルメイ氏、その危険にパイロットが難色を示すと、葉巻を噛みちぎって「何でもいいから、低く飛ぶんだ」と厳命した。

Source: ameblo.jp via Hideyuki on Pinterest



空襲後の東京を部下にスケッチさせたルメイ氏、さも満足げにそのスケッチを眺めてながら、つぶやいた。「この空襲は、天皇すら予想できぬ」

日本の主要都市で空襲が計画されたのは、およそ180。そして、その3分の1の60都市でその計画が実行に移されている。終戦間際の7月・8月などは、3日と空かずに、必ずどこかに爆弾が落とされていたほどである。

※8月1日の深夜に行われた水戸・八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官のルメイ氏の昇進を祝うもので、戦略上は「特に意味のない作戦」といわれている。それでも、富山の被害は地方都市としては最大であった(広島・長崎を除く)。




アメリカ軍による無差別爆撃は、日本がポツダム宣言(降伏)を受け入れる意向を連合国側に伝えた8月10日以降も、止むことはなかった。トルーマン大統領は8月11日に空襲停止命令を出したというのだが…。

8月15日ギリギリまで空襲は続いた。それは、日本側が「グズグズしていたからだ」と、アメリカ側は自身の攻撃を正当化している。

小さな都市まで含めれば、200以上の都市が被災し、日本全体の被害は死者33万人、負傷者43万人、被災人口は970万人と言われている(全戸数の約2割が被災)。



戦後、アメリカ軍による日本への「無差別攻撃」は、「戦争犯罪ではないか」との声が上がった。民間人への無差別爆撃は、明らかに「戦時国際法違反」であったのだ。

しかし、サンフランシスコ講和条約の締結によって、当の日本側はその賠償請求権を放棄してしまっている。

さらに奇妙なことに、日本の無差別爆撃を指揮した司令官・ルメイ氏は、日本から勲一等旭日章の叙勲を受けている(その授与は天皇親授が通例であったものの、昭和天皇がルメイ氏に面会することはなかった)。

Source: ameblo.jp via Hideyuki on Pinterest


のちのルメイ氏は、こう語っている。

「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。

幸いにも、私は勝者の側にいたのだ。」




第二次世界大戦の最末期、そして戦後の混乱。

60年以上が経過した冷静な目で眺めてみると、その世界には奇妙な現象が渦巻いているように見える。

しかしそれは、「戦争という現場」を知らないからこそ冷静でいられるのであろう。



実際に焼夷弾の雨の中を生き抜いた神倉氏は、空爆による焼け野原の写真を直視することが、いまだにできない。

その目に映る像は、またたくまに涙で歪んでしまうのだ…。

あの日の別れの記憶とともに…。




新装版 アメリカの日本空襲にモラルはあったか
―戦略爆撃の道義的問題





出典:特報首都圏 「知られざる空襲」

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