2012年7月10日火曜日

「豊かさ」を測る新しい経済指標。日本は世界一。


その国の「国力」を表す最大の指標は、現在、GDP(国内総生産)という数字である。

この数字によれば、世界最大の国力を有する国家はアメリカであり、日本のGDPは10年も20年も失われたとされ、挙げ句の果てに数年前には中国に追い抜かれて3位に転落した。

名目GDP(USドル)の推移(1980~2012年) - 世界経済のネタ帳


しかし、このたび国連が示した新しい指標を見ると、なんと日本は世界最高の「人材」を有している国家であると高く評価されていた。

3.11 大震災の大混乱時における日本国民の「立派なふるまい」は世界を刮目させることにもなったわけだが、今回の指標はそのご褒美ではなく、国民の教育や労働熟度などを勘案されたものであった。

この指標に従えば、日本は依然として中国よりも豊かな国家であり、両国の間には、2.8倍という厳然たる開きが存在する。





◎GDPが見るのは足下ばかり


GDP(国内総生産)には欠陥が多い。まず、この数字の視野は恐ろしく狭い。長期的な展望はまるでなく、まるで足下だけを一生懸命に凝視しているかのようである。

たとえば、山の木々を無思慮に伐りまくれば、のちのちの災いとなるであろうことは、想像に難くない(土砂災害、大洪水…)。しかし、GDPの数字に限れば、山の木々を伐れば伐るほど、その数字は見事に上昇していくのである。

これが中国であれば、木々を伐りまくって手っ取り早くGDPを上げることが、共和党内の昇進にもつながることになる。逆に山の木々を一生懸命に守ったとしても、GDPの数字は一向に上昇しないため、その行為は政策立案者にとっては一文の価値もない。

ここで問題なのは、GDPだけを競えば、山をハゲ山することが促されてしまうことであり、後々の災禍は無視されてしまうことである。子々孫々のことなどは蚊帳の外ということだ。




◎アメリカの抱える影


また、GDP(国内総生産)の数字は、「量」を注視するばかりで「質」を問わない。たとえば、アメリカの莫大な「医療コスト」は、先進国平均の2.5倍にも達するというが、この大きなコストは同国のGDPの伸びに大きく貢献している。

しかし、冷静な目で見れば、病気や肥満の人がたくさんいる国家が強力な国家とは思えない。それゆえ、専門家の多くは、アメリカの競争力低下を「肥大化する医療コスト負担」に求めるのである。さらに悪いことは、世界一お金のかかるアメリカの医療が、世界最高ではないことだ。



別の例では、リーマン・ショック(2008)の遠因ともなった住宅問題も挙げられる。庶民に返せないほどの借金を負わせることは、一時のGDP上昇という恩恵をもたらす。

しかし、かわいそうな庶民にその借金が返せないと分かった時には、社会全体がとんでもないシッペ返しを食らうことになる。これがサブプライム問題であり、世界をドミノ倒しにした金融危機である。この時にアメリカの住宅市場が負った深手は、いまだに膿んだままである。

後先考えないで、その時の大量生産・大量消費ばかりを生んでしまうのは、GDP偏重による不利益の一つであろう。お金でも資源でも、使えば使うほど、GDPの数字は上がるのであり、それが枯渇した時のことは、高い棚の上に乗せられたままなのである。



◎どんなに不美人でも勝てるコンテスト


少し覗いて見ただけでも、GDP(国内総生産)の不備はポロポロとこぼれ落ちてくる。これは万民の認めることでもあるにもかかわらず、依然GDPの数字は絶大な権勢を誇り続けている。なぜなら、それに変わるほど有力な指標がいまだ存在していないからである。

よく言われるように、GDPは「不美人(ugly)コンテスト」の勝者なのであり、世界一の美女だから選ばれているわけではなく、その対抗馬が醜すぎるのである。





◎質より量のGDP


単純化してしまえば、GDPの問題は「金銭の流れ(フロー)」にのみ着目し、「富の蓄積(ストック)」には無関心なところに根ざしている。そのせいで、その視点はごく短期的、近視眼的なものになってしまい、流れの量ばかりを追って、その「質」を問わなくなってしまうのである。

その結果、GDPの概念には「幸福・健康・安全・永続性」などの基本的な要素が完全に欠落してしまっている。ブータンというGDP世界163位の国家が、「国民総幸福量(GNH)」という新しい尺度を提唱するのも、ゆえなき話ではない。

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GDPの数字だけを追っていては、世界は自らを不幸にしてしまいかねない。

しかし悲しいかな、その先が断崖絶壁だと知っていながらも、その数字を後押しする力があまりにも強力であるため、世界はGDPの矢印が示す方向に突き進んでいくしかないのが現状である。

そして、分かっていても崖からストンと落ちてしまうのだ。リーマン・ショックのグラフのように…。




◎GDPが産声を上げた時代


現在では褒められることの少なくなったGDPではあるが、この数字が考案された80年以上前の時代にあっては、大変に有り難い数字だった。

時は1930年代、世界は大恐慌、そして大戦争の時代、人々は先行き真っ暗な不安におののき、右往左往するばかりであった。その時代、ロシアに生を受け、アメリカで教育を受けた「サイモン・クズネッツ」氏が考案したのが、GDP(国内総生産)という新しい指標だった。



当時の数字は、現在ほどに洗練されていない粗いモノであったが、それでもその効果は絶大であった。この数字のおかげで、平均的な景気後退の長さは、それまでの21ヶ月から11ヶ月へとほぼ半減し、その周期も4年に一度から5年に一度へと、より緩やかなものになったのだ。

銀行への取り付け騒ぎ、金融パニック、恐慌に陥る回数が減少したのも、確かで全体的な数字、GDPが下支えしたお陰だとも言われている。この数字があってくれたお陰で、人々の心に生まれる疑心暗鬼という鬼は、その力を大きく弱められたのであった。

※サイモン・クズネッツ氏は、その功績もあり、のちにノーベル経済学賞を受賞している(1971)。



◎もともと、旗振り役ではなかったGDP


GDPの生まれた背景をみると、この数字の意義も見えてくる。

その役割は、人々の先の見えない不安を抑えるという「縁の下の力持ち」的な要素が強い。そして逆に、旗を振って人々を先導するのは苦手なのである。時々、崖に向かって世界を誘導してしまうのだから…。





かつてのGDPの数字は、古いデジカメのように画素数の粗いものだったとはいえ、その意図を違えることがなかったために、その役割を十分に果たしえた。

しかし、現在のGDPの数字は80年前よりも格段に洗練されたとはいえ、どこか違うレールに乗せられてしまった感もある。そして何より、時代は80年前からダイナミックに変動しているのである。



◎新たな経済指標の模索


数年前、フランスのサルコジ前大統領は、GDPに代わる新しい経済指標の叩き台を発表した。ここには、GDPにはない「豊かさ」を測るという意図があった。

この新たな指標作りのために、サルコジ前大統領が白羽の矢を立てたのは、ノーベル賞を受賞している「ジョセフ・スティグリッツ」氏。彼はアメリカのクリントン政権時代に経済顧問を務めていた人物でもある。

ここで面白いのが、スティグリッツ氏はフランスで取り上げられた同じ提案をアメリカでも行い、それが却下されているところである。アメリカでは「大きな政治的抵抗」に遭って、彼は挫折しているのだ。



というのも、GDPという指標の下では世界一のアメリカも、別のモノサシで測れば世界一とは限らない。とくに「豊かさ」などが絡むと、アメリカはベスト10にも入れないのが常である。

「豊かさ」に強いのはヨーロッパ。とくにノルウェー、スウェーデン、アイスランドなどの北方系はとりわけ強い。モノサシを変えれば、フランスが世界一になることもある。GDP懐疑派がヨーロッパに多いのはこのためだ。



アメリカでは所得が高くとも、生活費として消える金もまた多い。一方、フランスでは有給休暇の多さや退職時期の早さもあり、フランスのGDPの数字はその豊かさを過小評価してしまう。

年をとっても休まずに働いた方が、よりGDPに貢献することとなるが、それが果たして「豊かな生活」なのか? GDP では世界一になれないフランスは、それを問うて、新たな指標を提示したのである。



◎人間の豊かな日本


今回、エコノミスト誌が注目した国連の指標も、やはり「豊かさ」を問うものであり、特徴的な点は、「人的資源」と「自然環境」に重きを置いている点である。

この指標で見ると、アメリカの富はGDPの10倍(9500兆円)にも及ぶ。しかし、それでも一人当たりに換算すれば、日本のそれには及ばない。日本の人的資本は、他のどの国よりも多いのである。

※国連による人的資本の計算に、「平均教育期間、労働者が得られる賃金、彼らが引退する(あるいは死ぬ)までに働くことを期待できる年数」などを用いている。





◎自然を守った日本


日本の美点は「人材」ばかりではない。1990~2008年にかけて、日本は「自然資本を消耗しなかったわずか3カ国の中の一つ」でもあった(残りの2カ国はフランスとケニア)。

日本は、石油や鉱物などの資源をもたないといえども、その国土の大半は豊かな森におおわれ、清らかな水と空気に恵まれている。そして、その美しい自然環境は、幸いなことにここ30年間は消耗していなかったというのである。



自然資本の消耗が激しい国家は、ロシア、コロンビア、ナイジェリア、サウジアラビア、南アフリカ、ベネズエラなどなど、世界に名だたる資源国であった。

逆に言えば、日本には資源がなかったお陰で、もしくは森林などの開発にお金がかかりすぎるがゆえに、その自然が守られたとも考えられる。



◎代替可能な3つの資産


国連の指標は、物的資本、人的資本、自然資本の3つのカテゴリーに分かれているのだが、この3者は金銭価値に換算することで入れ替えが可能である。

たとえば、サウジアラビアは自然資本である石油を3兆円分も消耗したが、その替わり、教育の充実により人的資本を80兆円分も増加させている(1990~2008)。つまり、石油を売ることにより、その27倍も人的資本が豊かになったのである。

掘ればいずれなくなる石油でも、それを人的資本に変えて貯めておくことが可能なのだ。



◎本当に代替は可能なのか


「モノ・人・自然」の3者が、お互いに入れ替え可能であるという発想は実にユニークなものであるが、この点に関しては異論も多い。

なぜなら、一度失われた自然を再生するためには、どれほどの年月、どれほどの労力が必要になるかは、正確には計測できないためでもある。「自然資産はうまく値段を付けるのが難しいことや、まったく値段が付けられないことがよくある」。

そのため、国連のいう自然資産というのは、化石燃料や鉱物、木材などの「市場価格が存在する資源」に限られている。所有することも売買することもできない「キレイな水や空気」などは除外されている。



◎ミツバチがつくるのは蜜ばかりではない。


自然に「値段を付ける」というのは、よほどに難しいようで、さすがの経済学者たちもこの点ではだいぶ苦労しているようである。

聡明な経済学者たちは、ミツバチが作る「蜜」には値段が付けられるが、ミツバチが植物の受粉を手助けする「サービス」には値段が付けにくいことを知っている。

明らかなモノとして存在すれば、容易く値段を付けられるのだが、失って初めてその価値が分かるモノには、値段が付けにくいのである。

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この点、国連の指標は不完全ではある。

しかし、値段が付かないモノに値段を付けようとする姿勢は高く評価されている。結局、ヒトは数字となって目に見えない限り、その価値を信じることができないのであるから。

80年前に考案されたGDPとて、そのスタートは完全ではなかった。ただ、その方向性の明瞭さから、何十年もかけて洗練されてきたのである。それと同様、スタートアップは大局を示すだけでも十分価値があるのである。



◎人は石垣…


かつて、武田信玄は「人は石垣、人は壁、人は堀」と言って、人こそが「国の基(もと)」であると考えていた。たとえ時代が変われども、「世界の当局者たちは、しばしば自国の最大の資産は人である」と言っている。

今回の国連の指標をみれば、それは明らかな事実である。世界のほとんど全ての国において、3つの柱(モノ・人・自然)のうち、人的資本が最大の資産となっている。

人的資本は、イギリスで90%、アメリカ78%、日本で73%もの比重をもつ。人的資本が最大の資産でない国は、世界に3カ国(ロシア・サウジアラビア・ナイジェリア)。いずれも石油に恵まれた国家ばかりである。



◎資源よりも長寿命な国家


日本の泣き所は、長らく「資源の少なさ」であったわけだが、この欠点は逆に日本の自然を守り、人間を育てる結果につながったとも考えられる。

たとえどんなに石油に恵まれていようとも、その栄華は100年も続くものではない(いずれ枯渇してしまうのが分かっているのだから)。その資源の短命さと比較すれば、国家の寿命はずっと長い。ギネス記録の日本国家は2600年以上だ。

そんな長寿命の国家の行く末を考えたとき、100年ももたない資源に依存することはどれほど危険なことなのか。それはあたかも短くなり続ける「背もたれ」に体重を預けているようなものである。



それでは、人の教育というものはどうなのか。

たとえば、人を導く世界宗教の歴史は軽く1000年を超えている。哲学や思想に関しても、何百年も前の書物がいまだに深い意味を持っていることも珍しくない。

今回の国連の指標において、「日本人」の価値は高く評価されたわけだが、それはこの国が2600年以上かけて育んできた何かしらかの蓄積の成果なのだろう。



◎小さくなった世界


モノが豊かであれば、その暮らしは消費的になり、逆にモノがなければ、そこには生産・再生・持続する知恵が生まれる。

アメリカという大国が消費的であるのは、その国土が豊かであるためであろうし、日本人が水を贅沢に使うのは、その国土に水があふれるほどあるためであろう。



幸か不幸か、世界のモノには終わりが見えつつあるものがある。そして、少なくなったモノは大事にせざるを得ない。経済原理から言えば、希少なモノの値段は上がり、それは無駄に浪費されなくなる。

もし、自然に値段がつけられるのならば、それが失われていけばいくほど、その経済的な価値は高まることになる。



◎岐路、ふたたびか


かつてGDPが考案された時、世界は岐路に立たされていた。

そして今、他の指標が求められているということは、世界はまた別の岐路までたどり着いたのかもしれない。



モノを選ぶのか、人を選ぶのか。

そして、自然とどう折り合いをつけていくのか、という岐路に…。

現代文明という大食漢は、そろそろ食べてばかりもいられないようだ。






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出典・参考:
The Economist「The real wealth of nations」
Foreign Affairs Report「GDPは万能ではない。だが、代替経済指標はあるのか?」
“Inclusive Wealth Report 2012”
Newsweek「サルコジが推す『豊かさ』新指標」

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