2012年7月27日金曜日

夢を翔けた「瀬戸大橋」。ホラ吹き諶之丞、100年の大計。


本州と四国を結ぶ「瀬戸大橋」。

瀬戸内海に散らばる島々を、あたかも飛び石のようにして四国へ伸びる。その巨大な橋の橋脚が置かれた島々は全部で5つ、橋は合計で6本連結されている。





◎橋の守人たち


この海を翔る橋ができてから今年で24年、その間ずっと、この橋を守り続けている人々がいる。

海に架かった部分だけでも全長10km近くもある瀬戸大橋、この長大な橋はたった6人のスペシャリストたちの手によって保守管理されているのだという。

彼らの立つ足場は、目も眩むほどの高所。最大で海面から200m近い。その狭い足場は、36階建ての霞ヶ関ビル(147m)のテッペンよりもずっと高いところにある。





橋全体で用いられているボルトの数はおよそ900万本以上。スペシャリストたちはその一本一本を手で触れ、目で確認して、その安全性を守るために五感を研ぎ澄ませている。

瀬戸大橋は100年保つように設計されているというが、彼らの志はその寿命を倍に延ばすことだ。日々の保守管理を徹底することで、それが可能だと彼らは考えている。





◎固い決意、たゆまぬ努力


与えられた任務以上のことを成し遂げようとする守人たちのリーダーは堀田哲男さん。瀬戸大橋を守り続けて16年のプロフェッショナルである。

彼の決意は決して緩まぬボルトよりも固い。「『まあいいか』なんてのはダメですね。200年保たさないといけないんですから。巨額の国費を使って造った橋なんだから、簡単に潰すわけにはいかないんですよ」



毎日毎日、ボルトの点検。900万本以上もあるボルトを一つ一つ確かめる。この途方もない仕事が終わるのには4年もかかる。そして、その翌日には新たな4年間の点検サイクルがスタートする。

瀬戸大橋に関わって16年という堀田さんは、この4年一巡のサイクルをすでに4回もこなしている。そしてその16年間、橋の異常が原因となった事故は一度も起きていない。



◎国家をあげた大事業


瀬戸大橋の総工費は1兆円を超える。そして、その巨費以上に多大な労力が注ぎ込まれてもいる。1978年に着工した工事は、のべ900万人の人員が関わった、およそ10年の長きにわたる超巨大事業であったのだ。

当時の日本は、高度経済成長からバブルへと向かうイケイケの時代。瀬戸大橋の大工事には国家の威信がかかっていたこともあり、そこには世界初の技術が惜しげもなく注ぎ込まれた。



たとえば、巨大な吊り橋をつるワイヤーは、瀬戸大橋のために開発されたものであり、わずか直径5mmのケーブル一本で車3台を軽々と持ち上げるほどの強度を持つ。その細く強靱なワイヤーを3万4000本以上束ねて直径1m以上になったものが、瀬戸大橋をつるワイヤーであり、その強度は世界最強(当時)であった。





また、吊り橋の土台となる巨大な基礎の型枠(ケーソン)は、通常海上で組み立てられるものであるが、瀬戸大橋の場合は陸上で組み立てられて、船10隻で4日かけて現場まで曳航するという前例のない方法がとられた。そして、この斬新な手法のおかげで、その工期は大幅に短縮された。





さらに、この瀬戸大橋は車のみならず、その下を電車が走る「鉄道・道路、併用橋」でもあった。

吊り橋の上を走る列車の重さは160トン。列車が通るたびに、その吊り橋は上下に大きくたわむ。それでも、橋も線路も決して折れ曲がらない。なぜなら、はじめからシナるように設計されており、最大5mのたわみを吸収することができるのだ(緩衝桁)。

当時の知恵があらん限り盛り込まれた瀬戸大橋、その建設を請け負った会社が取得した特許は100以上にものぼるという。



◎ホラ吹き諶之丞


世界最高の技術が結晶化したような瀬戸大橋。その開通は今から24年前の1988年。その構想から数えれば、じつに100年の歳月が流れていた。

瀬戸大橋の構想が打ち出されたという100年前といえば、それは明治時代。しかもまだ江戸の香りが残り、文明開化の光も地方までは行き届いていない時代である。

そんな時代に、いったい誰が瀬戸内海に橋を架けようなどと思い立ったのか?



それは「ホラ吹き諶之丞(じんのじょう)」。

彼の言うこと成すこと、すべてが人並み外れていたため、光栄にも「ホラ吹き」と称されるようになった人物である。彼の口から飛び出す気宇壮大なホラは、あまりに突拍子もないために、それを真面目に相手する人などいなかったのだ。

たとえば、彼の歌ったこんな都々逸が残る。「笑わしゃんすな百年先は、財田の山から川舟だして、月の世界へ往来する」。なんと100年後に彼の故郷・財田町から月へ行く舟を出すと歌っているではないか。

そんな彼の披露した瀬戸大橋の大構想。それが100年後に現実のものとなるとは、当時の人々は夢にも思わなかったであろう。月に行くという大構想は、アポロ11号に奪われたようではあるが…。



◎ホラは現実に


ホラ吹き諶之丞こと、「大久保諶之丞」の吐くホラは、ホラはホラでも豊臣秀吉の大ボラのように、次々と現実化してゆく。それは彼の在世中に実現したものもあれば、瀬戸大橋のように後世の人々が実現したものもある。

彼の業績は道路や鉄道などのインフラに関わるものが多い。そうしたインフラ建設のために、彼は私財をなげうつことを躊躇(ためら)わなかった(彼の家は古くからの豪農であり、その私財は莫大であった)。



諶之丞は幼き頃より陽明学を学んでいたこともあり、世のため人のためになることならば、実践することこそが道であると思い極めていたようである。

それにしても、なぜ、彼がそれほどまでにインフラ建設に熱心だったのか。それは年端もいかぬころの悲しい出来事が、彼をそうさせずにいられなくしてしまったのだという。



◎絶望の淵


ひどく雨の降りしきるその日、諶之丞は乳母・ヤクを心配して峠道まで迎えに出ていた。そして、道の向こうにヤクの姿を認めると、ホッと一息。

ところが、その一息のあとである。突然の土流がヤクの足下を襲ったのは。そして、そのまま崖の下に落っこちそうになるヤク。

「すわっ」と諶之丞はヤクに駆けよるや、精一杯に手を差し伸べ、しっかりとヤクの手を握り締める。



しかし悲しいかな。諶之丞11歳、その腕力には明らかな限界があった。

ヤクの手を握り締めたまではよいが、そこから引き上げることは到底かなわない。無情にも時は流れ、ヤクは崖の下へと…。



目の前のヤクを救えなかった諶之丞。歯噛みして涙を流す。

「あぁ、この峠の道がいま少しばかり広かったのなら…、ヤクは死なずに済んだのにっ!」

成人した後の諶之丞が、「ホラ吹き」と呼ばれようが、どんなにバカにされようが、道づくりに血道をあげたのは故なきことではないのである。



◎100年の大計


もはや、諶之丞の眼は100年先の未来を見つめて離さなかった。

100年後の四国のために道路や鉄道は欠くべからざるものであり、本州と四国を橋でつなぐことも絶対に必要なことであった。



彼は金を出すだけではなく、自らが道具を握って現場に立ち続けた。政治家であったにも関わらず、その手にクワを握って…。

自らの信念を曲げることのなかった甚之丞は、100年先を睨んだまま倒れた。享年42歳。志半ばどころか、志の緒についたばかりの若すぎる死であった。

彼の死んだ後、もはや莫大な財産はすべて無くなっており、残された家族は3度のメシにも窮する始末であったという。それは、私財のすべてが公共の利益に供された結果であった。





◎尊き犠牲


瀬戸大橋構想は、諶之丞が提唱してからおよそ50年間はほとんど放って置かれたに等しい。それも仕方がない、その構想は荒唐無稽なホラ話と思われていたのだから。

その大事業が重い腰をあげるには、もう一つの悲しい話が必要であった。

その事件が起こったのは1955年、「紫雲丸事件」と呼ばれる旅客船の沈没事故であり、犠牲者168名のうち、100名以上が小中学生という痛ましい事故であった。



コメのとぎ汁のように濃い霧の立ち込めていたその日、修学旅行生を乗せた紫雲丸は、行くか行かぬか迷った末に出航が決定された。一時的に視界が晴れたのは、結果から見ればじつに不幸なことであった。

懸念された霧は深まるばかりの海。そして、その白い闇の中から聞こえた汽笛は、突然の衝撃となって乗客を襲った。他の連絡船が激突してきたのである。

エンジンルームで爆発の起こった紫雲丸は、急激に左へと傾き、わずか数分で海底へ…。



◎漁師・国太郎の救出劇


その時の紫雲丸のあげた凄まじい衝突音は、濃い霧の中を響きわたったようで、近場でイカ漁をしていた地元の漁師・島谷国太郎の耳にも届いた。彼は少し前に紫雲丸とすれ違ったばかりであった。

虫が騒いだのか、国太郎は一気に引き返し、わずか5分で衝突現場に到着。即座に救助活動を開始。彼の機転により救われた命は50名弱。





しかし、先にも記した通り、この事故では多くの若すぎる命が海へと消えた。犠牲者の3分の2近くが小中学生だったのである(圧倒的に女の子が多かった)。また、船長は頑なに退船を拒否し、紫雲丸とともに沈んでいる。

かろうじて生き残った人は、その時の状況をこう語っている。「ドカーンと凄い大音響。ぶつかって3分もせずに船がググーンと大きく傾きました。大きな船ですので、沈むと渦の中へグーンと引き込まれ、そうこうしているうちに両足に髪の毛がまとわりついてくるのです。それは女の人の長い髪の毛だったのか…、今でも足に髪の毛が絡みついた感触が残っています…」



余談ではあるが、紫雲丸はこの大事故の前にも事故を立て続けに起こしており、今回は5回目の事故だった。あまりにも事故が続くために、「紫雲」というのは「臨終時に仏様が迎えにくる雲」だと囁かれ、ある人は「死運丸」とも呼んでいた。

ちなみに、この最後の事故を機に紫雲丸は改名され、以後10年以上、廃船まで無事故で運行されている。



◎甚之丞の先見


「あの事故がキッカケで、この橋(瀬戸大橋)ができたんだよね」と、土地の人は話す。

かつて、ホラ話だと思われていた諶之丞の話には、こうあった。「塩飽諸島を橋台となし、山陽鉄道に架橋連結せしめなば、常に風雨の憂ひなく…」。

塩飽(しわく)諸島というのは、のちの瀬戸大橋の橋桁が置かれた諸島のことであり、それを足場にして本州の鉄道と繋げれば、海の悪天候に左右されることなく、安全に往来が出来るようになる、と諶之丞は力説していたのであった。

塩飽(しわく)は「潮が湧く」に由来するとも言われるほどに、海の潮が複雑に入り組む海域であり、その航行は常に危険と背中合わせであったのだ。



◎塩飽水軍を育んだ荒い海


戦国時代に織田信長や豊臣秀吉に重宝された「塩飽水軍」というのは、塩飽諸島の複雑な潮の流れに鍛え抜かれた、戦国屈指の船乗りたちのことである。

彼らの名が天下に轟いたのは、秀吉の全国統一の総仕上げとなった北条氏・小田原攻めの時。小田原に向かった船舶の多くが台風により避難する中、塩飽水軍ばかりは奮然とその怒濤を乗り切って、見事期日どおりに兵糧米を秀吉に届け得たのであった。

以後、その功により島民650名は塩飽諸島の自治を認められた。当時、領地を持てるのは大名か小名かに限られていたにも関わらず、彼らは領地をもらったということで、特別に「人名(にんみょう)」という呼び名も与えられている。



江戸時代に入っても、徳川家康より特権を安堵され、年貢や漁場からの収益なども幕府に納める必要はなく、島で自由に使用することが認められていた。

彼らの卓越した操船技術は衰えることなく、新井白石をして「塩飽の船隻、特に完堅精好、他州に視るべきに非ず」とまで言わしめている。また、江戸最末期、勝海舟や福沢諭吉などを乗せてアメリカへと太平洋を渡りきった「咸臨丸」の水夫は、その7割が塩飽の島民であった。

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そして、修学旅行生たちを乗せて紫雲丸が沈んだとき、その救助に駆けつけた漁師・島谷国太郎は、その塩飽水軍の技を受け継ぐ者であった。



◎夢、成る


悲しい事故を乗り越えて、100年ごしの諶之丞の夢が実現した瀬戸大橋。

その開通式の日には、「クワ踊り」なる伝統的な踊りが披露された。クワを持って舞うその姿は、工事現場で甚之丞がクワを振るっていた姿を表すものであるという。

地元の人々は、土地の偉人である甚之丞を讃えてやまない。 「きっと、諶之丞さんも、空の上で踊っているに違いない…」

そして、その100年来の夢の橋は、堀田哲男さんをはじめとする優れた守人たちの手によって、完璧に整備され続けている。その夢をもっともっと遠くの空まで伸ばすために…。



◎流れ出たもの…


瀬戸大橋は本州と四国の往来の安全性と利便性を高め、その心理的な距離をグッと縮めてくれた。しかし、このグローバル化によって、島の若者たちは次々と島を離れていくことにもつながった。

また、塩飽水軍以来の操船技術も、その活躍の場を失っていった。かつては12のフェリー会社が24時間往来していた時代もあったのだが、瀬戸大橋ができて以来、その需要は激減し、12社中じつに10社までもが倒産してしまったのだ。



かつて国を閉ざしていた日本が、その門戸を諸外国に解放した時、得たものも多かった反面、失ったものも多かったに違いない。世界がつながり、広くなるということは、きっとそういうことなのだろう。

今では、塩飽諸島に暮らしていても昔ほどの不便さはない。瀬戸大橋に乗っかれば、あっという間に本州の街まで行けるのである。それでも、島に暮らす年輩の方々は、昔と同じように物や食物を大切にする。

「買うたって安いけど、自分で作っとればできるやろ」と言うのは、岩本ユキ子さん(77)。ユキ子さんの菜園で毎年実るスイカは子供たちの大好物だ。岡崎加壽美さん(67)は、毎年観音様にお供えする花を自分で栽培している。この島には三十三の観音様がいて、それを島外の人々が大勢お参りにやってくるからだ。

昔は麦一粒とて粗末にはできなかったと、彼女たちは言う。閉ざされた島の暮らしの基本は自給自足であり、その恵みは限られたものであったのだ。



◎島の心


瀬戸大橋を200年保たすといって頑張っている堀田さんの心意気も、島の生活で育まれたものなのかもしれない。

思えば、日本の歴史はそうした島の歴史である。そして、そこに芽生えた心はモノの大切さを身体で分かっていたのではなかろうか。この点、塩飽諸島は日本全土の縮図のようにも思える。



塩飽諸島が瀬戸大橋で外の世界と直結したように、今や日本という島国は世界のあらゆる国々とつながっている。そして、その無数の道からはあらゆるモノが流れ込んでくる。と同時に、外へ流れ出るのも容易である。

道が通じて間もない時は、ひょっとしたら流れ出るものの方が多いのかもしれない。しかし、その流出も極まれば、逆に流入も起こり、いずれはあるバランスに落ち着くのであろう。



◎戻りつつあるもの


瀬戸大橋ができて24年。その潮の流れには少々変化が起き始めている。故郷の島々の魅力がふたたび若者たちを魅了し始めているのである。

塩飽のある島では、減り続けていた漁師がふたたび増えはじめ、10代20代の若者たちが2割を占めるほどになっているという。本州へ憧れ、島を離れた若者たちは、一度島を離れることで島の魅力に気づかされたのだという。



失わなければ気付かないことは、思いのほか多いのかも知れない。

海に閉ざされた島国・日本は外の世界に対する憧憬はことのほか強い。しかし、それでもこの島国に育まれた想いは、なお捨て難し。



「瀬戸大橋は外に出るツールでもあるし、また帰って来れるツールでもあります。この橋はそんな幅を広げてくれるものなのです」

行くもよし、帰るもよし。広がった世界を楽しむもよし。

落ち着く先があるということは、きっと幸せなことなのであろう。




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出典・参考:
NHK 新日本風土記 「瀬戸大橋」
大久保諶之丞
潮待ちの港・塩飽本島
本四高速 瀬戸中央自動車道

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