2012年7月14日土曜日

クモの糸一本で絶滅を免れた「クニマス」の物語


その墨色をした魚は、その地元秋田県でも「幻の魚」とされてきた。

なぜなら、その幻の魚「クニマス」の暮らしていた湖は、日本一の深さを誇る「田沢湖」である(水深423m)。その深い深い湖底に遊ぶクニマスの姿はおいそれと拝めるものではなく、目にするのは産卵後に死んで、湖水に浮かぶ姿くらいのものであった。



◎深き湖底に閉じ込められた「クニマス」


「サケ科」の魚というのは元々、海と川を行き来するものであったが、その長き往来の途上、何らかの理由で川から出られなくなるモノもいた。

幻の魚・クニマスもそうして陸に閉じこめられた「陸封型」のサケであり、その閉じ込められた先は、幸か不幸か、日本一深い湖底であったのだ。

それゆえ、クニマスほど独自の進化を遂げたサケも珍しい。外部の干渉の少ない湖の底は、その個性を発揮するのに十分な環境であったようだ。イワナよりはやや小さい印象のある外見こそは、近縁種のヒメマスと似ているものの、その内部気管や生態などは実に独特なものであった。





◎歴史ある高級魚「クニマス」


食としてのクニマスは、その類マレな美味から「高級魚」とされており、一般家庭の食卓で見かけることはまずなかった。

江戸時代の昔、秋田藩主・佐竹のお殿様の「献上品や贈答品」とされていたクニマスは、誰でもが捕ってよい魚ではなく、その専業の漁師がいたほどである。

「クニマスの刺網を張ることができる家は昔から決まっていた。湖畔に住む47軒だけがクニマス漁の株を持ち、それぞれの家が張れる刺網の数も、張っていい場所も決まっていた("ふたつの川"塩野米松)」



深所に生育するためか、その皮は硬かったというが、その身はというと深海魚のように白く柔らかで、生臭さもなかったという。あまりにも柔らかすぎて、うまく燻製が作れなかったという記録も残る。

※近縁のヒメマスは赤身である。

この特別な魚は、冠婚葬祭、もしくは妊婦・病人だけが食する魚であり、地元の人々といえども、そうそう口にできる魚ではなかった。大正時代には「クニマス一尾が米一升」とも言われたほど、この魚の価値は高かった。



◎人工孵化


そんな高級魚を庶民の口にもということで、クニマスの人工孵化は、大正12年(1923)に始まった。これも一つの民主化の流れというのであろうか。

この人工孵化は大成功を収め、「その漁獲量は一挙に10倍にも増えた」と、その業に携わっていた「三浦久兵衛」氏は語る。

「人工孵化が始まってから、クニマスはやや小ブリになったものの、一尾五銭にまで落ち込んだ」。



◎日本各所へ旅立った「クニマス」


この人工孵化の成功を受けて、幻の魚・クニマスの「卵」が、日本各所に送り出されていくこととなった。昭和5年(1930)に65万粒、その翌年に60万粒、その行く先は長野・山梨・富山の各県であった。

太古の昔から、日本一深い湖底に陸封され続けてきたクニマスは、ここにきて別の水に暮らすこととなったのである。



しかし、田沢湖で独自の進化を遂げたクニマスにとって、他所の水は肌に合わなかったようである。彼らはとりわけ深い湖、そして冷たい水を好んでいたのだが、田沢湖よりも深い湖など日本に存在せず、送り出された先のいずれもが秋田県よりずっと南方であった。

日本各地の湖で、唯一繁殖することができたのが、日本一の富士山の麓、山梨県の西湖のみ。のちに詳しく述べることであるが、ここに生をつなげたお陰で、クニマスは絶滅を免れることとなる。



◎田沢湖を襲った悲劇


その悲劇は、田沢湖発のクニマスの卵が何十万粒と日本各地に送り出されてから10年も経たずに起こった。

日中戦争のなさかの昭和15年(1940)、突然のように田沢湖に「毒水」が流れ込んできたのである。それは「玉川毒水」と呼ばれるもので、塩酸が混じった日本一の強酸性水(PH1.2)であった。



日本三大酸性湯としての「玉川温泉」は名高い。「大噴」と呼ばれる湧出口からは98℃の温泉が毎分8,400Lも噴出し、一カ所からの湧出量は文句なしの日本一である。そして、その大量の強酸性の湯は70km下流の角館まで行っても酸性を呈するほどに濃厚なのである。

湯治にはもってこいのこの強酸性の湯も、魚に当たってはひとたまりもない。不幸にも、クニマスはことさらに酸性水に弱い。酸性に強い珍しい魚・ウグイを残して、田沢湖にいた20数種類の魚たちは、この毒水ゆえに絶滅することとなった。



こうして、その生態が未だ明らかにされていなかった「幻の魚・クニマス」は、幻のまま田沢湖から忽然と姿を消したのである。

魚の棲まぬ「沈黙の川」と呼ばれた玉川は、深く清らかな田沢湖までをも「沈黙の湖」としてしまったのだ。この悲劇から70年以上もたった現在にあっても、田沢湖は今だに沈黙を守ったままである。



◎非情なる戦時体制


田沢湖に玉川毒水が流れ込んだのは、天変地異ではなく、明らかな「人為」である。田沢湖の水で発電しようとした人々が、その水量が足らぬということで、湖に玉川の水を引き入れたのである(生保内発電所)。

※この生保内(おぼない)発電所は現在も稼働中で、最大出力3万1,500kWを誇る秋田県最大の水力発電所である。

今それを聞けば、「ア然」とするほどの環境破壊であるが、当時は戦争に狂ってしまっていた時代である。その無理は悠々とまかり通ってしまったのだ。

ましてや、たった一種の魚などを顧みる暇すら与えれなかった。そんな「小さなこと」を口に出そうものなら、「国賊」とでも罵られかねない時代である。国力強化は何よりもの最優先事項であったのだ。



◎本当に幻となった「クニマス」


かつてはクニマス漁、そして人工孵化を手がけてきた「三浦久兵衛」氏は、こうした事態を湖畔で眼前にしながら、ホゾを噛むより他になかった。

「すべてが戦争に向けられていた時代…。電源開発もその一環であり、それにより田沢湖の魚が死滅することもやむを得ない…」

戦争に盲目になっていた時代に、静かに消えていったクニマス。三浦氏は「どこかで生き続けていて欲しい」と切に願ってやまなかった。幸いにもクニマスの卵は、日本各地に送付されている。希望の糸はまだ完全に切れたわけではなかったのだ。



三浦氏は本当に幻となってしまったクニマスを求めて、四方八方手を尽くし、そのかすかな噂を聞きつけては、その現地に飛んでいくのが常であった。しかし、その噂がクニマスにつながることは、ついぞなかった。

「あァ…、クニマスは『ホルマリン漬けの姿』を残すのみか…。辰子姫の伝説とともに、ほんとうに幻となってしまったのだ…」



◎辰子姫の伝説


秋田の伝説はこう記す。

自らの美しさを永遠のものにしたいと願ってやまなかった「辰子姫」。観音様のお告げに従い、清らかな霊泉へと導かれる。

その清らかな泉には、無防備なイワナがスイスイと泳いでいおり、辰子姫はそれを捕まえて食べてしまう。異常が起こり始めたのはそれからだ。ノドが乾いて乾いて仕方がない。

耐え難いノドの乾きに、辰子姫はなりふり構わずガブガブと泉の水を飲み続ける。それでも乾きは収まらない。と、自らの身を省みて驚いた。「竜の姿」と化しているではないか!



こうして、辰子姫は永遠の美を手に入れるどころか、人前に姿すら見せられない竜となってしまった。そして、その身を恥じるかのように、深い深い湖・田沢湖の底にその身を隠したのであった。

その頃、辰子姫の消えたことに度をなした母親は、タイマツ片手に声を枯らしながら辰子姫を捜し求めていた。そして、田沢湖のほとりにたどり着くや、娘の変わり果てた姿に愕然とする。

「あァ…、なんと情けなきことよ…」。母親はその手にかざしていたタイマツを、怒りと失望にまかせて湖面へと投げつけた。



すると、そのタイマツの燃えさし、不思議なことに尾ビレをフリフリ、魚となって湖底へと泳ぎ去っていった。

このタイマツの燃えさしこそが「クニマス」。この魚が炭のような墨色をしている由縁である。





◎現実化したフィクション


田沢湖のある秋田県出身の漫画家・矢口高雄氏は、幻の魚・クニマスを「釣りキチ三平・地底湖のキノシリマス」という作品に描いた。

※「キノシリマス(木の尻マス)」という名は、クニマスの別名であり、辰子姫の伝説にあるように、タイマツの燃えさし(木の尻)からその名が来ている。

そのストーリーは「釣りキチ三平の祖父・一平が、地図に載っていないような山中の湖に密かにクニマスを移植し、そこで繁殖したものの生育が確認される」というものである。




もちろん、この話はフィクションであり、消えた幻の魚・クニマスを惜しむだけのものであった。ところが、この話はフィクションとまったく同じ筋書きで現実化するのである。

現実世界において移植したのは一平ではなく、三浦久兵衛氏などのかつて人工孵化を手がけた面々。そして山中の湖は、富士山の麓の西湖(山梨県)であった。



田沢湖では戦争の間接的な犠牲者となってしまったクニマスであったが、彼らは住処を変えて、奇跡的に生き延びていたのである。

1935年に田沢湖から西湖湖に送られたクニマスの卵10万個が、繁殖を繰り返して現在に至ったと考えられている。

電源開発という人為により闇に葬られたはずのクニマスは、これまた人為である人工孵化という行為によって、ふたたび世に姿を現すことになったのは、なんと皮肉な偶然であろうか。



◎西湖の不味い黒マス


山梨県の西湖に「前は見かけなかった黒いマス」がいることは以前から知られていた。その黒いマスは割りと頻繁に釣り上げられており、「一般の釣り客も10尾に1尾程度の割合で簡単に釣り上げていた」のだという。

しかし、それをクニマスと考える人はいなかった。近縁のヒメマスは産卵を前にすると黒色に変化するため、それだと思われていたのである。

そして、幸いなことには、黒く変色したヒメマスは「まずい」とされていたため、その黒いマスは釣り上げられるとリリースされていたのである(まれに食する人もおり、その美味を語っている)。





◎中坊教授とさかなクン


その黒いマスがクニマスと判明するのは、中坊徹次教授(京都大)とさかなクン(東京海洋大学)のお陰であった。

中坊教授は、イラストレーターであるさかなクンに、クニマスのイラストを書くよう依頼した。しかし、さかなクンは困ってしまう。ホルマリン漬けにされたクニマスは真っ白く色が抜けており、その独特の墨色がいかようなものであったかが判然としなかったのだ。

「さかなクンの夢は、この絵に色をつけること。え? もう生きて泳ぐ姿が見られない?」と、さかなクンは新聞記事に書いている。



そんな時であった。西湖の漁協から「黒いマス」が送られてきたのは。

その生態を聞いた中坊教授は、それはまさに「クニマス」そのものではないかと直感する。ヒメマスとは異なり3月に産卵すること、しかもその産卵場所は深い湖底であること、そして産卵後は死んで湖面に浮くこと…、いずれの生態もがクニマスを連想させずにはおかなかった。



◎やはりクニマス


その黒いマスが、クニマスと特定されるに至ったのは、中坊教授が丹念に幽門垂と鰓耙(さいは)の数を数え上げた結果であった。

※幽門垂とは人間で言えば十二指腸にあたる器官で、鰓耙(さいは)とはエラの内側にある器官。

これらの数はサケやマスの種によって決まっており、たとえばクニマスならば幽門垂の数は46~59と、多種に比べて著しく少ない。一方、鰓耙(さいは)の方は31~43とやや多い。



中坊教授は研究室で独り集中して、その細かい器官の数を黙々と数え上げたわけだが、その時の様子をこう語っている。

「人に任せるわけにはいきませんでした。そして、その数がクニマスのそれだと判った時には、嬉しいというよりも、恐いような気がしました。

なぜなら、科学の常識では絶滅した種が復活するなどということは考えられないからです。そして、その驚愕の事実を知っていたのは、その時点では世界に私一人だったのですから」



◎絶滅したはずが…


玉川毒水が田沢湖に流れ込んで以来、クニマスの捕獲数はゼロとなり、環境相は「絶滅」と認定した。

一時はホルマリン漬けの標本からDNAを取り出して復活させるという試みもなされたが、そのDNAはホルマリンにより分断されており、その復活は絶望視されていた。



クニマスを愛し、その発見に八方手を尽くした三浦久兵衛氏も、「やはり絶滅したのかも知れません…。でも昔から人目に触れずに生きてきたのだから、もしかすると、どこかでヒッソリと生きているかもしれません…」

諦めたくない諦めとかすかな希望を込めて、そう語っていた。



もし、その三浦氏が「クニマスは生きていた!」の報に接することができたのならば…。

しかし悲しいかな、彼はこの吉報を待たずして、そのわずか数年前に息を引き取ってしまっていた…。



◎クニマスは生きていた!


クニマス漁師・三浦久兵衛氏、そして漫画家・矢口高雄氏、そのほか多くの人々の「夢」は、中坊教授とさかなクンの手によって現実となった。

「絶滅したはずのクニマスは、生きていた!」

この事実は、クニマスという一個体の奇跡であると同時に、科学界へのうれしい衝撃でもあった。復活することは考えられない「絶滅種」が生きていたという、大きな希望となったのだから。



その「奇跡の魚」はNHKが湖底での撮影に成功し、秘められていた伝説の一端が世界に示された。

「遊泳はなはだ活発ならず」との伝承どおり、その泳ぎは不得手であるかのようにゆったりとしていた。そして、外敵を恐れないのか、撮影用のライトにすら動じる気配はなかった。

なんと堂々たる姿なのであろう。太古の昔より田沢湖の湖底に悠々と暮らしていた様を夢想させるではないか。





◎切れなかったクモの糸


クニマスが絶滅していなかったのは、細い細い偶然の糸が、奇跡的に途切れることなく紡がれ続けた結果であった。

もし、人工孵化が成功していなかったら…、もし、卵が日本各地に送られていなかったら…、もし、西湖の環境がクニマスのお気に召さなかったら…。そのどの一つが欠けたとて、クニマスがここに存在することは不可能であった。



日本の固有種とされるクニマスは、その種小名を「カワムラエ(kawamurae)」という。それは、京都大学の川村多実二教授がアメリカにクニマスの標本を送り、それが新種の魚として認められたからである(1925)。

そういえば、クニマスを再発見した中坊教授も京都大学の教授ではなかったか。どうやら、見えない細い糸は人々の気付かぬところへも、縦横に張り巡らされていたようである。



◎大量絶滅とは?


過去の地球において、種の大量絶滅が「5回」ほどあったとされている(ビッグ・ファイブ)。その大量絶滅というのは、地球上の種の5~8割が失われることを指すのだという。

その定義に従えば、現在の地球はまさに大量絶滅が起こっている(7割ほどの生化学者がそう判断している)。なぜなら、人間の栄華によって、地球上の多種多様な生物種はその半分以上が絶滅してしまっているのである。



クニマスの絶滅劇は、ダム開発による有り難くもない副産物であったが、それと類似の人為により、地球上の種は激減してしまっている。

この現代の大量絶滅が何を意味するのか、我々はまだ知らない。幸いにも、我々はまだその過程にいるのであり、破局を迎えたわけではない。



◎戻れない過去


この大量絶滅の過程で一つ思うのは、クニマスをつないだような細い糸のことである。

名もなき小さな種といえども、その種はどこかからの糸を引き継いだ者たちであり、どんなに細い糸でもそれは何かを支えているのである。

その糸は細いがゆえに、たとえ何本かが切れたとて、大勢に影響はあるまい。しかし、それが何百本、何千本と切れてしまうと、はたしてどうなるのか。



クニマスの場合であれば、その糸は一本として切れることが許されなかった。

それでは、我々人間は?

我々を支える糸は、いつまで十分な強さを保ちえるのであろうか…。



自然法則は過去へ戻ることを許さない。

西湖に居を移したクニマスは、もう田沢湖へは戻れないのである(田沢湖の水質改善の試みは、まだ始まったばかり)。

それと同様、我々も過去へ戻ることは叶わず、ただひたすら前へ前へと進んでいく他はない。進みながら綻びを繕っていくしかないのである。



クニマスが示してくれた希望は光明でもあろう。切れていない糸はまだたくさんあるのであり、我々はその一本を知ることができたのだ。

5度の大量絶滅を乗り越えてきた地球上の生命は、その道が切れかけてもなお、ここに生を繋いできているのである。そして、人間もそのリレーに参加している一種に過ぎない。



はてさて、「これから」に生を繋ぐのは人間か、はたしてクニマスか?

幻が現実となった今、現実が幻となることに何の不思議もないだろう。







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出典・参考:
幻の魚クニマスを求めて
生きていたクニマス

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